どれだけ痩せても、「痩せることに成功した!」とは思えないから痩せ続けようとする


はじめのまとめーー足りないと感じる心が、自分を苦しめる

「頑張りすぎ」とは、一言でいえば、「どれほど頑張っても足りないと感じてしまう心」のこと。


もう、十分にがんばったから、このくらいでやめておいてよいのではないか、とか、
他のことのバランスにおいて、これはこの程度でやめておいたほうがよいとか、
そいいう感じ方ができなくなるのが「頑張りすぎ」です。



ひとたびそういうモードに入ってしまうと、どれだけ頑張っても、
「もっと頑張るべき」「まだ頑張りが足りない」と思ってしまうので、
果てしなく頑張って自分を削ることになる。



痩せる努力をして、
客観的には、病的に細い身体を手に入れているように見えたとしても、
「どれだけ痩せても自分を痩せているとは思えない心」の状態の時には
ゴール(痩せたと思える場所)がないのに、ダイエットを自分に課している状態








◇数字の世界の少女たち


拒食症の女性(だいたい30kg台前半くらいかな)と3人くらい、直接お話をしたことがあるけど、
悩みは2つあって、「太るのが怖い」「自分を痩せてるとは思えない」ということだった。


当然の事ながら、明らかに客観的にみれば、痩せすぎているし、拒食症になる子は、なぜかだいたいがカワイイしイイ子。


街を歩いていても「あの人、太ってるよね」などと絶対言われない体型とルックスを持ち合わせている彼女達。
それでも、自己評価は「これ以上太れない」「今の自分じゃ痩せていると思えない」





拒食症の心理面の病理を表すのなら、
「どれだけ痩せこけても、痩せていると認知できない脳(心)の異常
」と言えるかもしれない。
どれだけ見た目で痩せていても、痩せているとは思えないので、痩せていることを証明してくれる存在が必要になる。


それが体重計と言う数値。数値は嘘をつかないから。



ただ、たとえば、45kgから41kgにダイエットを成功した人は、「私は痩せた!」と喜ぶが、
拒食症で34kgの人は30kgになったところで、けっして「私はやっと痩せられた!」と喜ぶことはない。


あっても、ほんの一瞬のはず。
なぜなら、「どれだけ痩せても痩せたとは認知(痩せた自分を実感)できない」状態に陥っているので、
数値という絶対的な存在が、痩せやことを示してくれたとしても、そこに決して満足することはない。






■鏡(見た目)ではなく体重(数値)への執着

体重に対してこだわりが、と言うか数字に対するこだわりですね。
数字なんです。見た目じゃなくて。

見た目だったら鏡を一生懸命見ますよね、体重計じゃなくて。


「見た目だったら鏡を一生懸命見ますよね、体重計じゃなくて。」
この言葉に痩せたい気持ちと行き過ぎたダイエットの差がある。

健康に向かうダイエットあるいは満足感の訪れるダイエットと、
永遠にやせたという達成感を得られないまま閉鎖病棟で食事を治療として施さなきゃならない場所までダイエッターを導くダイエットの違いだと思っていて、
”体重を落とすために体重を落とす”(お金をためるためにお金をためる)みたいな、目的のないつまり終わりのない努力を永遠にしていくことが
拒食症という場所なのだと思っている。








■痩せても満足感がないから、もっと痩せるしかない


ダイエット依存症のすべての人が前向きに痩せようとしているわけではなく、
食事制限の毎日に疲れていたり、ダイエット中心の人生から抜け出したい、と願っていたりするのですが
それでも痩せようとする努力がやめられなくなってしまうのです。

その程度が極端になると摂食障害という病気になってしまいます。


こうした様々な「見た目」に「完璧」がない異常、
常にその評価は不安定で、本当の自信は得られないのです。










■痩せ願望の強さは関係ない場合もある


夏に向かって痩せよう、といった軽い気持ちでダイエット。
しかし、食生活をコントロールすることが究極的な目的に。
次第に身体の調子も悪くなり
すっごい毎日毎日が生きてても仕方ない感じ、
むなしい感じっていうか、
自分の存在の意味とか
そういうのがだんだんわからなくなって、






Aさんの証言:

最初は忙しくて食事が食べられなくて、
そうすると痩せちゃって。
そしたら、あっ、痩せられたと言うちょっとよろこびみたいなものがあって。
なんか仕事が忙しいのと、でも食べなくても痩せるからいいや、みたいな感じのところがあって、
食べなくっていう状態になって。

やっぱり痩せるのは面白かったと思いますね。


Bさんの証言:

面白いように数値が落ちたからやっぱり、いけるところまでいって、
そのときは何キロになりたいっていうより、
いけるところまでいきたいって思った。

ダイエットが楽しい。その時は。
つらいんだけど、それ以上に痩せることが楽しくて。
全然、苦じゃなかったね。

体重も減るし、身体も、服もどんどん入るし、
逆に既製の服が大きいって言うのがすごく快感で。




■「体重が減った」という達成感がダイエット依存へと


面白いように落ちたから、いけるとところまでいきたいって思ったかも、
という語りからは
ダイエットに成功することでやせ願望が強まったことが分かる。





私たちはダイエットを
「痩せたいから(原因)→ダイエットする(結果)」という因果関係でとらえがちだ。
しかし、肥満恐怖と呼ばれるほどの強烈な痩せ願望は
ダイエットを始める前からあるものではない。


やせたいと思っていなかったにもかかわらず
ダイエットに成功した後に
過度な痩せ願望を持つようになった手言ったのだ。


もともと痩せたいと思っていた人からも、
痩せたいと思っていなかった人からも、
ダイエットを始めた後に痩せ願望が強まっていく傾向が語られた。
普通に食事をしていた人々が
何らかのきっかけでダイエットをはじめ、
ダイエットを続ける過程で痩せたい気持ちをどんどん膨らませて言ったのだ。













■「ものさし」が少ないと「評価」にとらわれる

そして、その一つが「あの人は太っている」という評価であったり
「あんなに太っているなんて、よほど節制がないに違いない」という
評価だったりするのです。

ところが、評価と言うのはあくまでも主観的な
「自分なりの消化の試み」ですから、往々にして相手の現実とはずれているものです。



そのようなずれがあるのに、一般に、評価は決め付けるような形で
行われるため、相手からすると押し付けであり、ことによっては暴力のようにすら感じられます。




そもそも、ある人の事情はその人にしかわからないものであり、
他人のものさしをもって何かを決め付けると言うことそのものが
相手を侵害することになるのです。



あらゆる評価に暴力性が内包されているのですが
特に体型についての評価は鋭く刺されるものです。

その一つの大きな理由は
評価の「ものさし」が「痩せているかどうか」というひとつだけだからでは
ないかと思います。



例えば、仕事の仕方が悪いなどと言われたら
「いえ、これにはこういう事情があって」などと言い返すこともあるでしょう。
仕事には自分以外の人や事情が関わってきますし
そもそも仕事の仕方には多様性があって
どれがベストといえないところもあるからです。



しかし、体型の場合は「太いか細いか」というひとつだけの
「ものさし」で測られてしまうのです。
評価と言う性質上、その目盛りを決めるのは相手ですから、
極めて一方的な話になります。



一般に、評価はその「ものさし」の数が少なくなればなるほど暴力性が増すものです。
それだけ、「良いか悪いか」という断罪的な要素が強まるからです。



「痩せさえすれば」というところにしがみついている人に
「人間の価値というものはもっと多様なもので」などと説教したところで
何の救いにもならないのはそのためです。



そして、単一の「ものさし」は最も暴力性の高いものですから
「痩せている」という単一のものさしで計ったときには
「痩せていない=悪い」と決め付けられてしまいます。



すると、ただでさえコントロール感覚を失ってとらわれやすい状態になっている人が
ますます「これではだめだ」とパニックになり、とらわれの悪循環に入っていく、
というおなじみのコースを辿ってしまいます。


さらに、痩せていない場合には「努力が足りているか」と
これまた単一の「ものさし」で測られることになります。
ですから、「太っている」と言われてしまうと
「痩せていない、努力が足りない」という二つの評価を同時に下されることになり、
二重の意味で反論しにくく、またその評価は二重の暴力性を持って自分に
突き刺さってくるのです。