情報的交流がなければ、人間同士における「感謝」は生まれないのだと思う。

■苦労を見て育つ子どもは幸せか


「母親の苦労を見て育った。だから、母親を大切にしたい」


というのは


「子どもを不幸にした母親は大切にされるべき」という話になる。



子どもを幸せにした母親は大切にされない、という
おかしな構造が子どもに被害を与えることにはならないだろうか


苦労を見せられてきた子どもは
心理的に母親の”荷物”を持たされている。
子どものこころは
自分の(心理的な)荷物を持つことで精一杯です。そのうえ、
母親の荷物まで持たされたら…




大人によって護られていない子どものこころは
安定から程遠い混乱した世界を生きている。


そのような状態の子どもが
現実の世界で傷つけられると
その傷つきは内側(無意識)では癒されず、
ますます不安と恐怖が増大し
混乱が深まります。

(子どものこころが傷つくとき 網谷由香利 第三文明社


























◇「自分の心(気持ち」を「守ってもらえた」という体験の欠如







「母の日」…
「感謝」「子どもの見ていないところで」「母は強い」




こんな言葉が踊っているけれど
僕はハッキリいってしまえば、母親だけじゃなくて父親もそうだけど、
苦労はかけた罪悪感は大いに感じているけれど
『感謝』というものは、残念ながら、ピントこない類の表現方法だと実感
している。




摂食障害という病によって金銭的にも精神的にも
かなり謙譲な子どもを持った親たちよりも
長期に渡り、あるいは無駄な支出も背負わされていて
「かわいそう」とか「ごめんなさい」という気持ちは
毎日毎分、溢れてくるのだけれど、どうしても”感謝”みたいな
なんかこう、達観した感情は枯渇している。



結局、物理的な家政婦的な面でのお世話はしてもらい、
大いに有難いと思っているけれど、
幼い頃から両親を”心の味方”と思ったことは無い、というのが
「感謝阻害剤」になっているのだろうなぁ〜と思う。










子どものこころが傷つくとき―心理療法の現場から

子どものこころが傷つくとき―心理療法の現場から



■信頼 < 信用


要するに、心とか感情を『わかってもらえた』という経験、
人とのつながりを感じられない相手には
人間的な意味での特別感を感じることは無いのだろう。


情緒的に交流してもらえずに、
物理的な食事とか選択とか学校で必要なものとか
『感情を伴った心の触れ合い』みたいなことを
与えてくれなかった他人との関係性なんて、
結局そんなものなのだと思う。






・信頼関係


二人以上の人間の間で、親しく、強調的で、相互に心を開く関係が成り立ち、
相互理解が深まっていくと信頼関係にいたります。
信頼関係は無条件の愛で結ばれた無条件の関係です。
ですから、信頼関係を裏切ることはできません。


子育てがうまくいっている親子間には、この信頼関係があります。





・信用関係


信用関係は、条件付の人間関係で
ギブアンドテイクを求める取引関係です。

信頼関係を保つための条件は
条件の難易度が高まるほど、
また条件を満たすことを厳格に求められるほど、
ストレスの程度は強くなり、ストレス型の人間関係になります。


もしも自分の人間関係がすべて信用関係だとしたら、
その人の生活は非常に生きづらいものになるでしょう。