誰かが乗り越えることで、誰かは助かるかもしれない

「自分が親になってみると、父親には父親の、
 母親には母親には事情があったことがわかるわけで…」


「事情???
 ちっちゃな子どもにとって、大人の事情なんて関係ないですよ

 ちっちゃな子どもに、
 大人の事情を察しろって、そんなこと言えるの?
 物心付くかつかないかの女の子に
 事情をきちんと考えて、母親のフォローをすべきだって?」

(ファミリー・シークレット 柳美里 講談社












◇自分が問題から解き放たれることで誰かは困らない










■助けが欲しい場面で欲しい形の助けを…



僕は、自分が独りで乗り越えてきたからって、
「あなたも自力で乗り切りなさい」みたいな価値観の押し付けはしないで、「あの時、こういうサポートがあったら嬉しかったなぁ」という
後悔を誰かには同じ後悔をさせないような生き方を目指したい。


同じような場面で誰かの欲しいものを一番、わかってあげられるかもしれないし、
もしかしたら、それを提供することが出来るかもしれない。


たとえば、アプローチすべきなのは、食べ物でも体重でも無い、ということ。
色々なものを背負わされて(背負えるだけの力を持っていて)しまって、周りと同じ「普通の人生」を送れないのは、
決して努力が足りなかったからでも存在しているのが間違いだったわけでもない、ということを。






■「背負わされた苦しい生き方のパターン」からの脱出を



ひとに裏切られるのは悲しい。
それは、その相手の人間性みたいなものを信じてたからで、自分にとってどうでもいい人に裏切られても、きっと何も思わない。


けっきょく何が悲しいかというと、それは、裏切られたことよりも、自分が信じていた人間が、ひとを裏切るようなひとだったという悲しみなのだ。



ただもう、これからは、自分の人生を生きましょう。
もう、犠牲になるだけの人生は捨てましょう。


犠牲になる生き方しか学んできてないので、
何年間かは、同じように苦しい日々かもしれません。


けれど、犠牲じゃない、別の行き方を手に入れた時に、
「やっと自分の人生が始まった!」って思える瞬間が来るかもしれません。








■病人だった過去を有意義に生かす義務?


自分には何ができるんだろう?って、すごく漠然としていて、難しい。
できることはあるんだろうけど、それは人に求められるくらいのレベルなのか?そうじゃなきゃ、できるって言えないんじゃないか。
自分にできることって、言葉が広すぎて難し




ファミリー・シークレット

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