暴力は「攻撃」ではなく「恐怖」に由来する「防御」



※桜さん18才(主治医の診断のメインはパーソナリティ障害)とのやりとり抜粋





入院の診断書に発達障害とかいてありました
医師にきいたら、ひととコミュニケーションをとることが難しいこと、
精神年齢が低いことを言われました


わたしは病院を逃げ出しました
いま家にいます

そっかぁ。そんなふうにいきなり、発達障害とか言われたら
ムカツくしびっくりするし、逃げ出したくなっちゃうよね


発達障害についてはよくわからなくて、きいたときもなんともおもいませんでした
でも看護婦さんの首をしめたんです


わたしが首をしめた日は 看護婦さんに冷たくされた日です
わたしは看護婦さん全員に嫌われたと想いました

うんうん

病棟で守ってくれるひとはいなくなってしまったと思いました
そしたらすべてが怖くなって
自分の身を守るために看護婦さんの首をしめました

家では父の言葉の暴力があります
たまにほんとうに手がでます


病院はもう安心できる場所ではありません
いろいろなことを思い出しているので
いま
とてもこわいです

そっかー安心感がもてなくて、ずっと恐かったね


はい
お菓子を水でながしこんでいます
あとで吐きます

うんうん、つらいよね。僕は摂食障害だから、よくわかるよ。
どーしようもないよね


はい
つらい











◇攻撃は自分を守るための「防御」





子どもの頃に虐待を受けた人は
多様な価値観に心を開くことが苦手だということが知られています。
これは人格的に狭量だという意味ではなく「危険のサイン」ばかりに敏感になっていると
「自分と違う考え方の人がいる=自分が否定された」というふうに
解釈してしまうからです。

(ダイエット依存症 水島弘子 講談社)より













■基底的な安心感を奪われて…



幼少期に安心できない環境で育ってしまうと
「世界=安心感が無い・警戒しなければならない場所」
という価値観を引きずって生きなければならなくなるケースがある。


なぜなら、小さな子どもにとって、
「養育者(概ね親)=世界そのもの」だからだ。


子どもの世界を構成しているのは両親だし
世界とのつながりを与えてくれるもの両親であって、
両親の価値観で世界を見ている。


その世界(両親)が自分にとって危険な存在、
つまり、常に緊張感(暴力や罵倒)を与える存在であれば
「常に自分の身を自分で守らなければならない」状態が続き、
”基底的な安心感”を感じることなど、そうそう容易いことではなくなってしまう。


そして、世界は安全な場所でないのなら
ちょっとでも自分の予測とは違った行動をとった人に対して
警戒心と強い恐怖感を感じ自分を守ろうとするのは
正当防衛として考えることは出来ないだろうか??





■症状はストレスのキャパオーバー



大体の心の病気や身体の病気は
症状がストレス度を現す機能を持っています。


摂食障害もまさに同じです。
ストレスがたまると摂食障害が発症します。
そして、その後の経過も、
ストレスによって大きく左右されます。


あるいは、
「対人関係の不得手さ」や「精神科での精神疾患の診断」などによって
著しく低下した自尊心を、痩せる(という自分の勝ちを高めてくれそうな)ことによって
なんとか回復させようとする”自己治療行為”であるともいえる。






■恐怖から自分を守ろうとして必死


経験上、怒りとか攻撃って言うのは、
だいたいが「不安」とか「恐怖」とか「悲しみ」とか「罪悪感」とかっていう
自分の中で処理し切れなかったネガティブな感情や
ギリギリのところでネガティブさを抱えて生きているところに
”ちょっかい”を出され、刺激され、
自分を保てなくなったときにおきる”パニックによる行動化”なのだと思う。


引越しとか模様替えのときに
重い荷物を自分がもてるギリギリの状態で
2階に持っていこうとして神経を集中している時に
ポンってされたら、パニックになっちゃいますよね?






それで、あの、
ここからは推測なのですが
桜さんの看護士さんへの”首絞め”っていうのは
「怒りよりも恐怖」なのだと思うんです。






桜さんにとって、親友に対して抱く気持ちは
「批判」ではなく「恐怖」なのだということを明確にしました。


看護士さん、および主治医がすべきだったのは
「桜さんが恐怖のためにパニックになっているのだと理解すること」
だということ。

ですから、ケアすべきは「暴力性」ではなく
安心を奪われて「動揺した心」なのだと思うのです。





つまり、
「攻撃が激しければ激しいほど、怖がっている」と言うこと
なのだと思う。











■安心への期待を剥奪され、パニック状態


本人にとってはそれほど切迫している状況であるにも関わらず
周りは悠長に「感情の処理が未熟で行動化してしまう」
などとピントのはずれたことを
言っているのですから、その捉え方には明らかにずれがあり、
本人の切迫感はますます膨張していくのです。




この切迫感が
その後の爆発に繋がっていきます。




こうして安心感を奪われた人が
「病院=安心できる場所」という「期待を裏切られた」と振り返ってみると
桜さんのめちゃくちゃな行動もかなりの程度理解可能な話になってきます。


つまり、桜さんは看護師さんに復讐をしたわけではなく
恐怖から自分を守ろうとして必死なだけだと言うことです。
(もちろん、暴力を正当化するものではないし、
 もしかしたら、「相手が自分の要求を受け入れないのは許せない」と言う
 幼児的万能感が満たされていないのかもしれない、という可能性は
 否定できるものではないけれども)





そこで表現されているのは怒りであり相手への攻撃ですが
桜さんにとっては恐怖から来る必死の「正当防衛」なのです。


桜さんが訴えているのは
「だいたい看護師さんは人間としてのたちが悪すぎる。礼儀もなっていない。
 心の中では”見捨てたい・面倒な患者”と考えているに違いない。」という
めちゃくちゃな人格攻撃ですが
こういうときの「罵倒」の内容を聞くと
あまりにも一方的だったり筋が通っていなかったりすることが多いものです。



少なくとも、
ただ話をそのままに文脈を無視して聴くと
不快な気分になるものです。




「感情のコントロールができない”パーソナリティ障害患者”」として
使われてしまっても、何ら不思議はない。
(特に、認知症統合失調症など社会的入院の管理をメインとしているような
 主治医であったなら、この傾向はさらに強くなってしまうだろう)




しかし、それは当然の事で、
「意図された攻撃」ではなく突然の事態に動揺する中での自己防衛なのですから
「相手がどう思うか」などということは全くお構い無しになるのです。
とにかくやみくもに攻撃して身を守っている、というイメージに近いものです。




桜さんの首絞めが「意図された攻撃」であればそのようにたしなめることにも
意味があるのかもしれませんが
やみくもな自己防衛なのですから、
何の意味もないということになります。


つまり、本人にとっては「自己防衛のための正当な手段であり、自分を脅かした相手が悪い」という
認識に留まっているのであって、そんなときに「相手に悪いと思わないのか」と言われても、
全く心には響かない、ということになる。













◇さいごに



安心感を奪われることを体験した人と接する際には、
それぞれの文脈を同時に視野に入れなければならないが
トラウマ患者には「自分の」味方が必要なのであり、
一貫して信頼できる治療者が必要

(トラウマの現実に向き合う 水島広子 岩崎学術出版社)より







僕の民間療法的浅知恵と患者の立場として、最も彼女に
与えられて欲しいなぁと思う要素は
「そういうときにはただ自分の話をじっくり聞いてほしい」ということ。


ただ受け入れてもらえれば
自分は徐々に落ち着いてくるのだと言うことに
気づくこと、また、そういう相手がそばにいてくれるといいのですが…











参考文献:




ダイエット依存症 (こころライブラリー)

ダイエット依存症 (こころライブラリー)