病人という労働

親の世代になると年金はドンドン減っているし、
私がいつまでも家にいるせいで老後の資金食いつぶしている気がして。
結婚できればパートでもいいんだろうけど、きっと独身で一人暮らしでパートなら生活できないよね。

(24歳・大卒・家事手伝い)




ある種の精神疾患=未熟さの代行業


■育ててもらう代わりに未熟さを請け負っている


我が子は病気になってしまった辛さはあるかもしれないけれど、
親達は、トータルで見ると幸せそうでしょ?

人間的未熟さをカバーするため、あるいは人間的な未熟さを親という立場を手に入れることで補おうとしてきた。

他人に自分の思いを伝える能力、自分を抑える能力、他人へ優しさをはっきり示すこと、大人を管理する会社組織と違って子供という思い通りに操れない存在を導く力、要するに、他人と正しく繋がる能力の欠如…

こう言った、子育てをする上で必要と思われる資質を一人の人間として親になる前に鍛えておくべきことを棚上げして”大人・親”になろうとした代償を
病んだ子供は、知らないうちに背負わされている。




親の未熟さを吸い取ってあげてるんだ。子供は。

親達は、己の未熟さを棚上げして、働いて家事をして、世間から”一人前”として認められようとした。
父親と母親というポジションにつけば、親としての努力はしなければならないが、一人の人間としての未熟さは親という立場によって上手に隠せるようになる。親という立場を手にすれば、親業が優先されるから仕事と家事というハードの部分に取り組めば、社会から認められるようになる。



そういう未熟さを子供は、背負わされたんだ。
そして、子供が、背負わされた病を克服することが出来れば、親世代は、
自分の未熟さを永遠に気づくことなく、死ぬまで、穏やかに生きていくことが出来
てしまうだろう。


自分達は、結婚して、お互いの弱点を補い合う相手を見つけて、それでバンバンざいかもしれない。たとえ、人間的な繋がりがない虚構の関係だとしても、お金あるいは子供という繋がりで一緒に営んでいくことは出来るだろう。



ただ、それぞれが抱えている未熟さを子供たちはしっかりと受け継いでしまう。
真似してしまうし、本来なら真似して得られるべきコミュニケーションを学べないこともある。夫婦の関係性から人間の関係あるいは男女の関係の基礎を一緒の空間に居て学ぶはずであるが、その関係がいつも乾いたものであったとしたら、子供は他人との暖かい関わり方を学べないことになる。
肝心なのは、親同士の乾いた関係に疑問をもてないことである。
疑問をもてないから、親を手本にして人間関係に躓きやすくなってしまう。






■夫婦という単位では補完できたとしても…


こんなふうに、夫婦という単位でみれば、未熟な部分を補完関係になっている夫婦はうまくいくであろうが、子供の成長へのプラスの寄与にはならない。むしろ、マイナスを与えることの方が多いのではないだろうか。




本来なら、親が向き合うべき未熟さを、子供が病気という形で受け継いで、
それを解消してあげようとしているんだ。


だから、お金の事は、気にしない。
お金で自分の未熟さを解消してくれる存在に投資をして、幸せになろうとしているんだから。


自分の未熟さに向き合うよりは、社会で働いてお金を稼ぐほうが、楽に決まっている。
いつでも自分自身の問題と向き合っている病んだ子供は、ちゃーんと”仕事”をしているのだ。


子供が病気を克服すれば、めでたく”補完関係のある夫婦”として、お互いを支えあって生きていくことができる。


そうした、補完できる相手を見つけることで親達が目を背けた未熟さを解決するという大仕事を、ある種の精神疾患を背負わされた子供はdutyしているのだ。


だから、社会的には価値のない闘病は、その対価を得て、ある意味で当然なのだ。
病人という労働を投げ出さずに向き合おうとしている自分を、恥じて罪悪感を感じる必要など無いのだ。