男は能力、女は外見

◇他人の評価の為に生きる人生

「他人の目を気にしなさい」「人様の迷惑を考えて行動しなさい」「そんな事したら笑われるわよ」などなど、
「あなたの評価は周りの人が決めるのよ」といった”大人の世界のルール”を家庭に持ち込まれてきた人たちは、
「見た目(他人の評価)」のために生きるようになるのは理解できる話だ。


大人の世界では他人の評価の多寡により、給与という対価がもらえるのは確かであるが、幼少期から大人になるまでの人間形成にまで、
このルールを持ち込んでは健やかな成長は危ういものとなる。




■ひきこもる男性、過剰ダイエット女性

「見た目」には性差がある。男にとって見た目とは単純化すれば「能力」であり、女は「外見」である。
「社会で通用する能力が無い」という見た目が男は怖い。だから引きこもりは男性に多い。対して、「ブス、デブ」という見た目が女は怖い。だから摂食障害は女性に多い。




■見た目が病気につながる因子

このように、社会から見た、自分の「見た目」については誰もが少なからず気にしている。性差はあるにしろ社会的なプレッシャーは誰にもある。
そこで考えなければならないのは、「見た目」への恐怖が病気に繋がってしまう人と、そうでない人の境目はどこにあるのかということ。SADやEDまで至る因子は何か?




■「ありのままの自分」を認められない人が、病気になりやすい

社交不安障害(SAD)や摂食障害(ED)になる人たちは、ありのままの自分を認められた体験に乏しいことが
ひとつの特徴です。


「どうしてお前はそうなんだ?」
「あなたの考えはおかしい」などと、直接批判されてきた人もいれば
「そんなことをしたら、他人がどう思うか考えて見なさい」と、
他人や世間かを引き合いに出されながら、間接的に批判されてきた人もいます。


「おかしい」といわれれば「おかしい」と言われないように、
自分の形をつくらなければなりません。


その結果、「見た目」が気になってしまうのは仕方がないことです。


そして、ストレスが十分に溜まった時、「見た目」が気になる病気を発症しやすい、
ということも理解できます。






■自己肯定感と見た目(他人の評価)


最終的には自己肯定感の欠如みたいな話になるはずなんだけど、
結論は対して重要じゃなくて、自己肯定感に辿り着くまでの展開に大切なことは隠れている。
自己肯定感というのは「何も無くても自分は今の自分で大丈夫」という感覚の事。
「見た目」というのは、他人の視点からの評価である。
自己肯定感、すなわち、「自分は大丈夫」と思えるのは、他人が「見た目」を評価してくれたときだけに限定されてしまうということであり、
たとえ、他人が見た目を評価してくれたとしても、その10秒後には、また、自己肯定感は下降してしまうことになる。


こんなふうに、他人からの評価でしか自己肯定感を得られないのであれば、
他人に見せるために「見た目」を整えることに注力していくのは当然の事であり、
見た目を評価してもらうことだけが「自分は大丈夫」と思わせてくれる唯一の指標になってしまう。


だけど、本当の自己肯定感は、内側から湧き出るものであるはずであって、他人の評価でしか自分に自信が持てないのであれば、
自己肯定感はいつまでも高まることなく、永遠と見た目を整える(他人の目)を基準にしてしか生きられない、苦しい人生を強いられるようになるのである。




■「見た目で評価されている…」という妄想から解放される


一般に、「見た目」を気にしないようにしよう、と思うときには
相手の言動を気にしないようにする人が多いと思います。


しかし、実際に必要とされることは逆で
「相手」を本当の意味で気にかけることによって、
「見た目」へのとらわれから解放されるのです。



「見た目」を気にすると言うことは
「相手の目」を気にすることです。

しかし、それは、頭の中でこしらえた「相手の目」にすぎないのです。

その「相手の目」とは、「プチトラウマ」にとってつくられた「他人とは、自分に評価を下して傷つける存在」という
認識を映し出した虚像なのです。

そこから、目の前のリアルな相手に視線を映すことによって、
相手にも色々な事情があることを知り、「評価を下して傷つける存在」という色眼鏡をはずすことが
できるようになっていきます。



「見た目」を気にする病気になる人たちはリアルな人間関係が少ない、ということをお話しましたが、
これは病気にまでは至っていない人たちについてもいえることです。



もちろん、表面的には、それなりに人間関係がある人も多いのですが、
それが「本当の人間関係」であることは少ないものです。


「本当の人間関係」というのは、自分の気持ちを伝え、相手の気持ちも聞く。
フィードバックを得て、生の声・生の考え方を共有すること。