「補助輪無しで自転車に乗れなかった自分」には、戻れない




摂食障害に飛び込んだ瞬間が、境目


「健康な人間」から「摂食障害者」へ飛び越えたのは、
たとえるならば、
補助輪無しで自転車を乗れた瞬間に似ている。






















戻れない感覚

「食べる→消化」


という機能を


「食べちゃった→嘔吐」


という不健全な回路に飛び移った状態に一度でも辿り着いてしまったら、
普通に食べ元を付き合っていくことは出来ない。


そして、それは


『「補助輪無しで自転車に乗れない」
  という自分を取り戻すことは出来ない。』


ということとよく似ている。




「補助輪無しでバランスが取れない」という感覚を
取り戻すことは出来ない。


一度、補助輪無しで乗れるようになったなら、
『補助輪の無い状態ではバランスがとれない状況』を作りなさい、と言われても、
残念ながら、バランスが取れない自分に戻ることは出来ない。







自分を飼いならす力は育てていける

ある瞬間まで、
食べ物は「味方」であり「消化」するものであったはずなのに、
”そこ”を飛び越えた瞬間から、もう、
「消化ということを意識せずに消化させていた自分」
に戻ることは出来なくなる。



そして、「自転車に乗れないようになる」ためには、
「自転車に乗れる」という「感覚」を捨てなければならない。


「捨てる」って簡単に書いてみるけれど、きっと、
「自転車に乗れなくなること」というのは
何をどうすれば感覚を忘れることなどできるのか、
全く見当が付かない。





きっと、
「失った自分(自転車に乗れなかった・何の疑いも無く食べ物を消化させていた自分)」
というのは、もう、戻ってこないのだと思うし戻れるものではない。



だとすると、摂食障害に飛び込んだ人が目指すべきなのは



「食べ物や体型へのこだわりが、健康な人よりは強いけれども
 そこそこに日常生活・社会生活を送れて、自分を著しく損なうようなことの無いように
 食行動を調整できる力を育てる」


ということが、現実的な目標になるのだろう。









もう、「何も意識せずに食べ物を消化させていた自分」という無垢な状態に戻ることは
恐らく、ないのでしょう。


ただ、完璧に食行動の問題は離れてくれないとしても、
人生の質を高めることは可能なはずなのだ。




「本当に自然な食行動領域行動」を持っていた自分には
もう戻れないとしても、そういう自分の弱点を「うまく調整して付き合っていく」
ということは、訓練を続けていけば、身に付けることが出来る…と思いたいし信じている。



だって、前頭前野の働いた、人間ですから。
過食も拒食も嘔吐も「食に対する嫌悪感→思考→理性」が生んでいるものであるのなら、
その理性もまた、さらなる理性で凌駕していけるのは、動物の中でも人間の特権なのですから。