解決者は他人事。回復者は自分への対処
堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。(「堕落論」坂口安吾)
■自分の事なのに俯瞰している
解決は客観的。他人事。コンサルタントみたい。加担はするけど責任は無い。
回復は主観的。自分ごと。経営者。
ずっと、解決者だった。
自分の問題を”外側から解決してやろう”と思ってきた。
どこか、治ることじゃなくて治る方法を見つける、みたいなスタンスだった。
自分のことしないで人のこと見るのって少し楽なんですよね。
本当の意味で傷つかないし。それでも充実感がある。
自分に関係することではあるんだけど、なんというか、
自分自身の状況を一つのサンプル程度に扱って客観的に
分析することで自分から離れることが出来る。
自分の問題は社会の問題となる。
◇回復者になるために
■回復とは
長い間生きることが辛かったのは
自分以上の自分に成る努力を重ねてきたからだ。
とても真面目で理想が高い。
いや、常に自分を否定していて、より良い自分に成ることを止められない、というのが
本当のところだ。
それに沿って頑張れば頑張るほど、
ストレスはたまり、エネルギーは消耗し、
生きることがつらくなっていく。
回復とは、その努力を止めることである。
■努力をやめるには頭からの解放が必要
努力とは頭にある理想を負い続けることを捨てる。
ありのままの自分を認める。
ありのままってのは
評価を手放すこと。
肯定的な評価を得られる自分、
世間的に認めてもらえる要素を持ち合わせていない自分であっても
最低限、存在する事を否定しないで許してあげる。
何の条件なくても呼吸をすることを許してあげる。
◇おわりに
■食べること、食べることは幸せ!!
食べることは本来は
ものすごく快感であるし、食べられるって言うのはラッキーな場所に生まれてきたということだ。
それを否定しつつも強烈に求めている、けど、その求めは排泄前提でないと受け容れることができない。
不幸せを払拭するのと同じくらいに
幸せに慣れていくのは難しいことなのかもしれない。
吐くという非日常が日常化してしまった、反転した生き方を再び反転させるのは
相当に苦労が伴いのだろう。それこそ、死んで生き返って、もう一回殺して生き返させるくらいな勢い。
そう考えていくと、苦しい生き方を続けている自分を一度、殺さないと、
普通に生きていた自分を取り戻すことは出来ない。復活させることは出来ない。
だとすると、「殺す=理想を目指して限界を超えた方法で痩せを維持している自分を諦める」のが求められているのであって、
そういう「執着する自分を殺す作業」が普通の自分に戻るためには避けては通れないステップなのかもしれない。
殺さずに、再構築しようとしても新しい自分が育ち定着するスペースがないのだから。
回復の前にまず、壊す!徹底的に落ちて壊して、作り直す。
それしかない、よね。