最も大事でツラい部分を避けていたら、そりゃー治らないよね…





◇「こんなに頑張っているのに!!」と嘆いてみたら、
  本質的な問題に目を背けている自分に直面した














○「太っていることはいけない」にメスを入れる



私が回復に向かって動き出せたのは
両親を責め、彼らから離れたからではなかった。
受験のストレスから解放されたためでもないし
自分の立ち位置を決められたからでもない。


私の中の長年、巣くっていた
”太っていることはいけないこと”という気持ちにメスを居れ、
歪みに歪んだボディイメージを矯正し、
そして適切な食生活を取り戻す努力を始めたことで
私は前に進みだしたのである。
ちゃんと食べるだけで治ってきた。
ちゃんと食べなかったからじゃん。
いまはそう思っているけれど、
ちゃんと食べないからいけないんだよ、って。


摂食障害の語り 〈回復〉の臨床社会学 中村英代 新曜社
















人間の”クセ”は長年の生活で身についたもの。
最初はやむを得ずに救いを求めた事が
今はそれなしでも生きていけるのに
長年の”クセ”として、いつまでもハビこってしまっているとしたら…



そうであるならば、改める”訓練”が必要だ。





過食嘔吐は長年のクセが抜けないだけだったりして!


過食嘔吐って多分、クセとか儀式とか日課とか、
そういう日常的なものになっている。
なんの疑問を持たずに日常的な行動として繰り返されている。
お風呂とか睡眠とか、もう日常の生活に組み込まれている。
アイデンティティと言ってもいいくらい。
だから、それを取り除くには努力が必要。



頑張ったつもりだった。
病気に必死に向き合ってきたつもりだった。
どうにかして
治りたいと思ってきた。



吐かない、でもなく、食べない、でもなく
食べて消化させる、という課題を先送りにしてきた



自分の人生の責任を誰かに押し付けたり何かで誤魔化して生きていると
人生が誰のものでもなくなってしまう。
主体格の不在な物体として浮遊することになってしまう。


結局、「吐かないで消化させる」という課題を先送りにし
見ないようにしてきた。





■頭の支配を実現させようと身体が損なわれ続けている


結局、嫌悪感を感じているのは頭なのであって
身体は受け入れる準備はあるし能力もある(入ってきたものを拒否しない。消化してくれる)
身体は何も言っていない。むしろ、肯定的に喜んでいるはず。
エネルギーの元が入ってくればうれしいだろう。
嘔吐によって枯渇している状態ならば
なおのことだ。


頭が嫌悪感を感じている。
頭の中にある許容量を超えると


頭からの支配を逃れられるのか。


いや、かなり難しい。というか今まで実現されてこなかった。

頭が持つ感情は強烈だ。
頭は心や身体が感じる感情と感覚を押さえつけることが出来る。
抑圧することができる。


この支配は逃れるのか、手放すのか、諦めるのか…
突き詰めると、もう、身体は食べ物も太ることもウエルカムな状態までには
戻ってきている。












最後は、今の自分の現状と心情を
あまりにも的確で痛烈に指摘しているエマーソンの言葉を借りて締めたい。




生きていることが重荷になってきたからといって、
死を願うのは卑怯である。
この重荷から逃れる唯一の方法は、
自分の使命を成し遂げることである
自分で何とかするしかないと悟った時から、
人の成長は始まる。
(エマーソン)



誰の問題でもなく、誰が請け負って完成させてくれるわけでもない。
自分から逃げていると、何も変わらずに虚構に日々が続いていくだけ、になってしまう。


もう、何万回も、そんな風に思ってきたんだけど、
やっぱり思うだけじゃ結実しなくって。。
強い思いは行動には必要だけど、行動に結びつかなければ意味が無い。


周辺の事はやり尽くした。
それでも、過食嘔吐からは離れられなかった。
だとしたら残された道は




「食べても吐かない」



という最も基本的で最も避けたい苦しみを受け居るための行動を
続けていかなければならないのだろう。

本質的なところに着手することを躊躇ったばかりに
何と無駄な時間とお金と生命の欠損を招いたのだろうか…。