「形の達成」は幸せを運んでくれない

人間は誰かに幸せにしてもらうことも、自分だけが幸せになることもできない。
人間に出来るのは恐らく、誰かを幸せにすることだけなのだ。

(どれくらいの愛情 白石一文






◇痩身という”形の達成”は幸せを運んでくれない


痩せたって、痩せ細ったって、自信なんて付いてこないよ。
「自信が無い自分」を隠す盾としてスリムという要素は使えるかもしれないけれど、自信の加点にはならないよ。





■形の達成で得られるのは選択肢の幅だけ
「形を達成したら幸せになれる」っていうのは、だいたい裏切られる。

痩せたら、胸が大きくなったら、お金があったら、結婚したら…こんな風な「形にはまる=幸せが与えられる」みたいな思考は被害者思考につながってしまう可能性が高い。
「これを達成したら幸せが与えられる(受動的)はずだったのに、どうして幸せにしてくれないの??」みたいな”幸せは誰かが運んでくれると信じている”思考は、非常に危険だと思う。


本来、形を道具に、いかに他の人間との温かい情緒的交流を育めるかどうかが重要なはず。


たとえば、痩せたことで痩せなければ知り合えなかった人と、温かい人間関係を感じることができれば、「痩せること=幸せに役に立った」ということになる。
これはけっして「痩せた=幸せ」という式にはならない。


あるいは、結婚が幸せにつながるのは、彼氏と彼女から、より人生のパートナーという意味合いの強い、夫婦になることで、
彼氏彼女だったときには踏み込めなかった領域にお互いが踏み込んで、お互いを理解し合えたならば、「結婚=幸せを感じる道具として使った」ということになるのではないだろうか。











■心から幸せを感じさせたのは、どういうときだったか?
視野が狭くなってしまっているときには、経済的な「生活レベル」など、表面的・形式的なことしか目に入らなくなります。


そんなときは、人生を振り返って。


人生を振り返ってみて、あるいは家族との生活を振り返ってみて、本当に心からの満足や幸せを感じたのは、どういうときだったでしょうか。
お金によって何かを得たときではないはずです。
また、何らかの形になるものを手に入れたときではないはずです。


自分のありのままを人から受け入れてもらったとき。
相手との間に心からつながりを感じたとき。
自分も人や社会の役に立てるのだと感じたとき。
自分はこれで良いのだと思えたとき。
自然に溶け込む体験をしたとき。
本当においしいものを食べたとき。



体験の内容は人それぞれでしょうが、そこには何かしらの「つながり」という要素があったはずです。
他人との繋がり。他の生命とのつながり。自然とのつんがり。

何であれ、つながりの体験をするとき、私達は心からの満足や幸せを感じるのです。








■形(条件・物質的な豊富)は器を満たさない

人間は愛情を求め続けます。そして愛情が得られず、空っぽのままであると他のもので満たそうとします。過剰な物欲や金銭欲、食欲、あるいはセックスを売り物にして女性の価値を確認することもあるかもしれません。。
しかし愛情以外ではその器は一杯になりません。どれだけ多くのものを所有しようと、満たされない感じは消えません。







■誰かと一緒にすごす時間は人生の一部

実は、相手という存在を尊重する、ということは、相手のありのままを認めることであり、
相手と共に「現在」にいる、相手と一緒の「現在」を慈しむ、ということなのです。

大切な人たちと過ごせることがいかに幸せなことか。その人たちと自分の思いが通じ合っているということが如何に愛しいことか。
忘れてはいけないし、忘れるはずもない。思い出すと心がぽかぽかになる、そんな人たち。大好きだ。




■足下を掘れ、そこに泉あり

25歳前後までは、まだ見ぬ新しい世界に、より自分が豊かになる出会いや物質がある可能性が高いけれども、そこを過ぎたら、すでに行ったことのある世界、あったことのある人、目にしたことがある物質…そういう若いときはスルーしていた出会いの中に、本質的な豊かさが隠されている気がしている。