人間関係で得られる温かさを錯覚させるアディクション


アディクション≒依存症


アディクションにどれくらい冒されやすいかという程度は、人によって異なります。


人とどうやって健康的な人間関係を作ったらよいのかがわからず、
人は信頼できないということばかり教わってきた人は、そうでない人よりはるかに冒されやすい傾向が高くなります。

そういう人は子供の時からひどい扱いを受けてきた可能性が高く、きっと人とうまく付き合う方法を学んでこなかったのでしょう。
つまり、もしあなたが心を通わせない親のもと育ったのなら、
あなたは他の人たちと比べてはるかにアディクションにおかされやすい傾向になります。



その理由は二つあります。


第一に、あなたはそういう家庭から、人と心を通わせるのではなく距離を置くことばかり学んできたと言うこと、
そして第二に、あなたはそういう家で育ったため、心の中に非常に大きな寂しさやむなしさがあり、
それを何かで埋め合わせたいといつも願ってきたということです。


人間に頼れない。だけど苦しい。
本当は感情を爆発させて誰かに受け止めて欲しい。だけど、それは自分の引き出しには無いし、そもそも、「他人との温かい関係」が自分に失われてしまっていることにも
気づけないまま生きてきてしまって、自分を生き延びさせるために手に入れたのが”アディクション”なのである。







アディクションを起こさせるものをとは

アディクションを起こさせるものをひとことでいえば、その人をポジティブに感じさせ、
快感や力強い感覚をもたらす”気分の変化”を起こさせる物質や行動です。



■錯覚を味わうためのアディクション行為

アディクション行為によって得られる安堵感は
ストレスが消滅したような錯覚を与えるに過ぎません。

次にあげるのは、過食がやめられない中年女性の告白です。

以前から夫婦喧嘩が絶えなかったが、
しだいに夫と口論するたびにやけ食いをするようになった。
不思議なことに、胃に食べ物を詰め込むと気持ちが落ち着くのだ。
そのうちに、特に空腹でなくても、精神的に不安定になると、とにかく何かを食べたいという欲求に突き動かされるようになった。

食べていると、胃袋だけでなく、心も満たされるように感じて、
強烈な安堵感が訪れうる。

だが、当然ながら、体重が増え、肥満してきた。
以前着ていた服が着られなくなり、最近うつ状態になっていることが多いのに気づいた。

彼女は、「何かを食べたい」という欲求が起きて、その行動に出るとき、
我を忘れてしまうのだといいます。









■自分をだます「偽りの達成感」


アディクションに冒された人が対象物の使用や対象となる行動を始めると
自分のおかれた状況や周囲に対する「コントロール感」を得る事ができます。


そして、そのコントロール感は、心の奥で感じている大きな無力感や、物事に対処できない非力感に対抗する力になります。
これはアディクションの進行が非常に魅惑的であることの理由の一つです。
しかし、それはまた、むなしい偽りの約束を信じていく過程でもあるのです。


つまり、「苦しみから解放される」という偽りの約束、「安堵感が得られる」という偽りの約束
自己実現が得られる」という偽りの約束、「世の中とうまくやっていける」という偽りの約束です。



たとえば、ギャンブル中毒の人が追い求められているのは
ギャンブルそのものではありません。

ギャンブルという行為がその人の情緒権にはっきり現われるもの、つまりギャンブルをすることによって
自己実現が達成され、人生が満たされる感覚」が得られる事を求めているのです。
つまり、「自己の知覚に直接働きかける行為」によって、
「苦しみとしての孤独」がもたらす「自分が消滅してしまうような感覚」を遠ざけるのです。


■詰め込むのは満たすためではなく”無”になるため

ドラッグやその他の依存症は、このようにして、患者の中で相手の存在が大きくなりすぎているとき、
「安らぎとしての孤独」を生きるための「無」を患者の深層心理が渇望している時に
忘れる力、余白を作り出す力になりえるのです。

というのも、こうした依存行動には同時に知覚が奪われ、
自分がきえてなくなってしまうような錯覚を打ち消してくれる働きもあるからです。

身体で何かを感じられれば、そのぶん、思考の方は停止させておくことができます。



過食症を患うある女性は、その仕組みを、こう表現してくれました。
「食べている時は、もう何も考えずにいられるんです。
 目を閉じて、やっとカラッポになれるの」




同様に、ギャンブルにアディクションがある人は、ギャンブルを始めると興奮状態がおとずれ、
あるいは自信が満ちるのを感じて、我を忘れてしまいます。


他のアディクションも、その瞬間に「我を忘れる」という点でみんな同じです。



こうして彼らは、人生が自分のものになっているという実感を得たくて、
徐徐にアディクションの対象に依存していきます。

そして次第に、アディクションの対象を追い求めることが人生そのものになっていくのです
(最初は、自分の人生がうまくいかなかった時に、虚しさの対処法としてアディクションをりようしていたのに、いつしか、人生の目標のためでなく、アディクションによって得られる偽者の満足感を追うことが人生の意味になる)