「見た目」が気になる!症候群 水島広子 主婦と生活社








読後の感想ーー大事だと思ったポイント

■「見た目」が気になる人はリアルな人間関係が乏しい

見た目を気にしている人は「人」を気にしているようでいて、
実は強烈に「自分自身」のことばかりみています。

■私達は誰しも常にベストを尽くしている

ありのままを受け入れるには「ここまでの事情の結果として、いまの自分がある」と認めること。
そのとき重要な視点は、「私は、どんなときにもベストを尽くしてきた」という事です。

■自分をありのまま認められなければ、相手のありのままを認められない


自分の「ありのまま」を認められない人は、相手の「ありのまま」を認めることも苦手です。
「人間はこうあるべき」という気持ちが強すぎて、相手の言動についてしばしば不適切さを感じてしまうからです。

■成功するダイエットとは自分の身体を愛おしむダイエット

「痩せるためのダイエット」はうまくいくことがありません。

人間の身体にはホメオスタシスという機能が備わっており、うつ病や拒食症にでもならない限り、
極端に痩せた状態を維持できないのです。










◇「見た目」を広義に捉えてみる





容姿・体裁・仲間内でのポジション・社会的地位…
本質はどうであれ、「自分は劣位ではない」という証明に誰もが躍起になっていて、
「相手にどう思われるか」に地基点がおかれている限り、「見た目」に関連する産業と病気は
延々と増え続けていくのだろう。









容姿としての「見た目」



■「見た目がよくなれば自信がつく」は嘘


何と言っても「見た目」を意識するということは
自分を「まな板の鯉」にすることになります。

他人からの評価に自分を委ねきってしまうと言うことなのです。

人からの評価など気にしない、ただ自分が納得できないだけ、と反論する人もいることでしょう。
しかし、「自分が納得できるかどうか」という基礎を作っているのは
実は「世間」や「社会」です。


様々な「見た目」に「完璧」がない異常、
常にその評価は不安定で、本当の自信は得られないのです。







■「拒食や過食をしている自分」という「見た目」が耐え難い

摂食障害は”体型”という「見た目」を気にする病気であると同時に、
「虚飾や過食をしている自分の姿」という、いわば「症状の見た目」が負い目になってしまいます。


過食症状がある人は、過食をしている姿を他人に見られることをとても嫌います。
嘔吐にいたっては「嘔吐しているのでは」と周囲の人から疑われることすら、耐えられない人が
とても多いのです。

過食も嘔吐も、わざとやっているわけではなく、病気の症状としておこっていることなのですが
本人はそうした症状の「見た目」すら気にしている、と言えます。




そもそも摂食障害になる人は
「人は自分のことをどう思うか」
「相手は自分のことをどういうふうに見ているのか」にとても敏感です。



摂食障害者の異常とも思えるコントロール願望は、
頭の中に自己像に満たない自分をどうしても受け容れることが出来ない。


であるから、理想を追い続ける。だけど正しい方向に努力できない。


なので、痩せている自分、思い通りに体重をコントロールしている自分、
痩せて周りから愛される自分、など、頭の中に常に描いている現実からみると、
おおよそか内装も無い自分像をなんとして結実させようとするのが現在、
著しく増えているように思える摂食障害(特に過食症)の病原体になっているのではないだろうか。












「馴染んでいる自分」という見た目


■「友達が少ないと思われたくない」

一生懸命、気を使った結果、やっと友達らしく接してくれるようになった相手に対して
自分の本当の気持ちや悩みを打ち明けることなどできませんから、
結局、ずっと、空気を読み続けなければならなくなります。

あるいは、虐待的な人と友達づきあいをしていて、会うたびに傷つけられてしまうのだけれども
「友達が少ない」状態にはなりたくないので受け入れている、という人もいます。

その関係は第三者からみれば「いじめ」にしかみえないような関係だったり、
明らかな支配関係であったりしても「友達が少ない」という「見た目」に
耐えられないので、その関係を絶つことが出来ないのです。


最近のいじめは特に集団の気分によって行われるので、いじめられた理由はわからないことが多い
するといじめ被害者は「人からネガティブな思いを向けられないように自分を完璧に整える」→
「良い見た目の自分を保つ」という対処法しか身につけられない。


ストレスフルで、破綻しやすい対処法だ。.




ところがそうした「最近のいじめ」には、驚くほど共通する構造があって、それを知ることができれば、
「被害者が自分であったことの必然性」などなかったのだ、ということがわかってくる。







■「コミュ障」というレッテルを避けたい

人それぞれコミュニケーションのあり方は違うのに、
人前でぺらぺらしゃべれない自分のことを「コミュニケーション能力が低い」と責めてしまったりもします。

単に「マイペースな性格で納得しながらじっくりと話を進めていくのが最も自分に合った形」なのであっても、
そういうコミュニケーションのあり方は「悪い」「ダメだ」と感じてしまうのです。

臆することなくテキパキと話すことこそが「いいコミュニケーション」だという思い込みが、
その基本にあります。

本来、コミュニケーションとは、お互いの気持ちを伝え合うものですから、
その「見た目」はまったく本質的ではありません。

「見た目」にとらわれてしまうと、本当に伝えたいことが伝わらなくなってしまいます。



この主体は反応の主体である。

個人がむき出しになって、「いつでもどこでも」連絡が取れる体制になると、
無反応も反応の一つとなり、それ自体がメッセージになる。

このソーシャルメディアにおいて育った子供・学生達は
自己存在とは反応のことであると思っているに違いない。 .



「我反応する、故に我有り」がソーシャルメディア時代の若者の格率であるわけだ。