日常レベルの人間関係における「賢い退避」は大人の選択


感情・感覚は自己中心的であるべき





■虐待的な相手な相手とは距離を置く


人間関係の中にが危険もあります。
「人間を癒すのが人間」なのであれば人間の心を傷つけるのは
自然災害とか貧困とか病気とかっていうファクターも存在するだろうけれど、結局は人間からのダメージでしか
人間の心は傷ついていかないのかもしれない。


「太ったね、少しは痩せたら」など、新たなプチ・トラウマにつながるようなことを言う人も
存在しています。


ですから、体型にとらわれている人にとって、
外見をとやかく言う人は要注意です。
何も考えずに社交のつもりで軽く言っている人も居ますので、
一度は「そういうことを言われると傷つくからやめて」と
言ってみましょう。


その人がいわなくなったとしても本心で思っているのなら
何も間違いない、だから「やめて」と言っても意味は無い、
と思うかもしれませんが、そうでもないのです。



多くの男性が、「太った?」→「えーそんなことないよぉ〜」という
お決まりのパターンのコミュニケーションのフックとして「体型体重」の事を
話題にしているのですが、中にはそれほど相手にダメージを与えているとは全く知らず、親しみの表現として言うことすらあるのです。


ですから、「太っていると言われると傷つくので辞めてください」
といえば、びっくりして辞めてくれることも多いのです。


それでも続くようなら
それは言いたくて言っている人です。



そういう人からは離れるようにしたほうが身のためです。



そうは言っても他に魅力的なところがある、
という場合もあるでしょう。
あるいは、離れてしまったらかわいそうだと思うこともあると思います。

しかし「痩せたがり」を自分の中に抱えている人にとって
日常的に「少しは痩せたら」などと言われ続けることは
かなり深刻な問題なのです。







■傷む自分が悪い?


相手の誠意の無い言動ををされてもなお、
「大目に見なければ」「大人なら感情を表してはいけない」と思うようなときには
そうやって自分をいじめるような形で事態をとらえる感じ方が
気分変調性障害の症状なのだと気づくと言うことです。



何が「自分をいじめるような形」なのかが良く分からないという人は
自分は同じことを他人に要求するだろうかということを
考えてみてください。


とんでもない、と思うことが多いと思います。
水奈さんの場合も、自分が連絡もせずにドタキャンをして
相手に「大人なのだから大目に見るように」と要求することなどありえない、
ということがわかりました。


そもそも、が自分に厳しい人が多い疾患です。
これは病気が治ってからも続く傾向です。
ですから、病気の影響をどれほど除外しても
わがままな人間になることなどありえない、
ということを良く覚えておいて頂きたいと思います。


また、「自分をいじめる」ということが「相手に配慮する」ということではない、
ということも押さえておきたいポイントです。


人間は、自分の希望を満たしてもらうことに喜びを感じるのであり
相手が自虐的になることに喜びを感じるのではありません。


こちらが自分の気持ちを伝えやすく伝えることで
相手の気持ちも伝わってくる、という側面もあるということもあります。

自虐的になって自分を閉ざしてしまうと、
相手の役割期待に応えるチャンスも減る、ということもあるのです。










■自分の感情を肯定する


症状を見つけていくためにも、そして進むべき道を知るためにも
自分の感情を尊重することはとても大切です。
感情は、その状況が自分にとってどういう意味を持つかを
教えてくれるものだからです。



自分がネガティブな感情、特に怒りや不満を感じるときには
何らかの「役割期待のずれ」があるときです。
ですから、怒りそのものに恐れを感じるのではなく、
そこにどのような役割期待のずれがあって、どうすれば解消していくのか、
ということを考えてみて下さい。

そうすれば、怒りと言うネガティブな感情をポジティブに活用していくことができます。











■誰もが「仕方のない」物語の側面を生きている


何かしらの苦しい体験をしたとき、自分の事情を心から受け入れた人は、
他人にも事情があることに気づいていく。
頑張っていない人などいない、という理解だ。そういう人を見ると、本当の強さを感じる。



「いじめられている君たちへ」というタイプのポジティブな
語りかけに私が違和感を抱くのは、本当にトラウマを受けている人にとって
はかなりレベルの違う話だから。
ある程度の自己肯定感がなければ、ポジティブな提案に前向きに
なれない自分を責めるだけだろう。



いじめなどによるトラウマ症状(自己不全感を中心としたもの)を
長い年月にわたり抱えながら、それがトラウマ症状として典型的な
感じ方だということも知らない人にしばしば出会う。
自分が「不全」なのではなく単なる症状としての感じ方だということを
知るのは福音になる。