「強さの中にある弱さ」「弱さの中にある強さ」

大学時代のことが今もトラウマになっていて。。
ううん、もっと前から私の心は病んでた。


大学でのことは病気や引きこもりの決定打にはなったけど。
家庭環境や成長過程での過度のストレスも溜りにたまってた。


でも
私と同じ境遇に立たされても
乗り越える強さを持っている人はいるはずで。

自分にそれだけの強さや柔軟性がないことが
こんなにも自分自身を苦しめるなんて。



確かにつらかった。毎日毎日耐えて耐えて、
それだけじゃなく出来るだけの努力はした。
少なくともあの当時はもてるだけの力を振り絞ってただただナースになることだけを諦めなかった。


でも頑張ろうとする意志とは裏腹に私の心は壊れていった。


眠れない。
毎日500グラムずつ体重は減っていき、
自傷をして心の痛みを体の痛みに置き換えて必死にしがみつくようになった。
自分では一生懸命やってるつもりが、他人からみたら休んだ方がいい。

結局大学中退せざるをえなくなって、私は悔しくて悔しくて仕方なかった。
どうしてもっと頑張れなかったんだろう、どうしてもっとしっかりできなかったんだろう。


















◇『自分は弱い』の「勘違い」と認める「強さ」




上記は25歳女性(BPD・自傷過食嘔吐持ち)の
悔恨の吐露である。



「同じ境遇に立たされても
 乗り越える強さを持っている人はいるはずで」


という部分について、ちょっと考察してみたい。







■「サポート」の有無の問題



もちろん、生育環境の中で無意識に培ってきた
「誰にも助けてもらえない、助けてもらえる価値もない」
「人間は頼れる、人間に頼っても良い」という信頼感を育ててもらえなかった
という場合もあるだろう。

だから、それは人間個人の強さという部分、つまり、自分ひとりで耐える、
ということだけに寄与しない。




精神科系の疾患の人の殆どが、自分のことを「弱い」と感じています。
そして、弱い自分がこの社会で生きていくためには
弱音を吐かず、歯を食いしばっていかなければならにあと思っているものです。


そんな姿勢で生きていると、どんな人でも病気になってしまいます。


本人は、自分が弱いから大うつ病になるのだと感じているものですが
実際には、ストレスへの「弱さ」を作っているのは、
「自分の弱さを認められない」という姿勢そのものだと言えます。


それこそが本当の意味で
「強くなる」ことだと思います。


自分の「弱さ」と感じてるものの殆どが症状です。
症状によって社会進出が難しいと言うこともあるかもしれませんが
病気が自身を奪っていきます。


ただ、ここでいいたいのは、
病気を病気として認めていくということは「強さ」です。


自分の弱さを感じて恥じたり隠したりするのではなく、
病気の症状としてまっすぐに対処していくことは「強さ」なのです。


「弱さ」と感じるものに
ネガティブな感情があります。
辛い、嫌だ、不安だ、と感じる気持ちです。

強い人間は、そのようなネガティブな感情とは無縁であるか、
感じるとしても抑えることができると信じています。










■「助けを求められる強さ」



一般に「強い」人と考えられているのは
適応力のある人でしょう。
環境の変化にも柔軟に対応でき、健康を守り、社会的な機能を
維持できる人です。


つまり、変化を多面的に見ることができ、
自分の感情を否定せず、周りのサポートを得られる人です。



これは、精神病を抱えている人が考えている「強い人」のイメージとは
正反対のものです。



「全てを独力で乗り越えて、弱さを見せず感じず、
 平然とした顔をしてやっていくことができる」

という姿が著しく自尊心を失っている精神疾患系の人が考える
「強い人」であることが多いものだからです。




しかし、このような「強い人」は実際には「役割の変化」におけるリスクが
高いと言うことになります。
ある程度はこのような姿勢で適応できても
とても大きな変化のときにはポキッと折れてしまう人たちを多く見てきました。

ですから、摂食障害、あるいはその背後にある
パーソナリティ障害的な症候群の治療で目指していく方向こそ、
本当の強さを得る方向なのです。


病気は病気と認めてまっすぐに対処し、
様々な変化においては自分の弱さを頭に置いて柔軟に対応できる、
そんな姿勢こそが強い人間だと言えるでしょう。



病気と人格が混同される中で
すっかり見えなくなっていたのです。


もちろん、生育環境における安心感の剥奪から
「人生は自分で切り開くもの」「だれも助けてくれない」
という価値観を抱えて生きてきてしまった、というのは
ある意味で「弱さ」でもあり「強さ」でもあるでしょう。


けど、人間には助けが必要なのです。基本的には
人間は動物の中で最も弱い生き物で、
助け合わいがなかったから、ここまで
自然界の中で高等な地位に付くことはできなかったでしょう。


過去の環境(親とか親戚とか兄弟とか)は
誰も手を差し伸べてくれない環境だったかもしれない。


ただ、その鎖を断ち切って、価値観をゼロからはじめてみれば、
今居る環境は、「良くぞ助けを求めたね!出来ることなら何でもするよ!!」
という人たちの環境に生きているかもしれない。

その扉を開くのは、誰でもない、自分でしかないのです。







多くの人にとって、病気と区別された人格は、
大人になってからは、初めて出会う存在です。
病気に長年耐え、自分の存在を支えてきてくれた強い人格に
ぜひ治療を通して出会っていただきたい。





















○エピローグ




■いつか許せるその日まで





そして、前述の吐露には
次のような続きがある。


どうしてもっと頑張れなかったんだろう、
どうしてもっとしっかりできなかったんだろう。

………そんな自問自答が8年経った今でも続いている。
病院に入院したり、通院したりカウンセリングを受けたりで、辞めたときより心は落ち着いてきた。
だけど、ちょっとした拍子に涙がこぼれる。
私をいじめた人たちが幸せになっていったり。




彼女の言うように、「彼女自身を弱い人間だ」と決め付ける人が居るとしたら
それは、全てを結果でしか見れない人の言葉だ。

そういう味方をしない人だって居る。
あるいは、もしかしたら、彼女を「誰よりも強い人だ」とかんじる人も居るかもしれない。


自分の限界にチャレンジし、限界を超えてでも、なお、
自分を突破しようとした人間を、どうして「弱い」などと罵ることができるだろうか。


そして、願うなら、彼女が彼女自身をいつか許してあげられる日が
訪れて欲しい、と思う。
結果だけしか見れない自分が自分を傷つけ続けていることに気づいて、
いつの日にか、「こんなにも強かったんだなぁ私は…」というふうに
優しい思い出に変わることを、願っている。


そして、いじめた人たちへの憎しみ、
いまはナースの道を歩み、
これからも歩んでいくかもしれない人たちに対する怒りも
彼女自身のために捨て去る日が訪れて欲しい。



動機はなんであれ、怒りのエネルギーの中に身を置くこと、
そして、自らも怒り続けることは、思いのほか人間の健康を損ねるものである。
そして、そんな時期が続いた結果として体調を崩すということになるのだから。


自分自身のためにも、許せる日々が訪れるといいなぁ






起こった出来事は変わることは無いとしても
その過去を違う側面から捉えなおすことで、
「辛い過去にもそれなりに意味があったんだなぁ」って
都合よくストーリーを作り出す誤魔化し力を
人間は持っているのだから。