幸せを目指したいなぁ〜

我慢はしたよ もういいだろ?行きたい
時間がないんだよ さぁその手を離して


今日でなくちゃだめなんだよ
明日のことは 今は忘れるさ


戻らない 今は、この時は
逃すなよ今を
感じろよ今を
生きるのだ今を

阿部真央/ふりぃ)























◇そして「日課」だけが残った。








過去だとか自分の体験だとかは、一体何なのだろうか?
それより何より、過去の記憶とは一体何のだろう?




僕はずっと摂食障害に苦しめられてきた。


進んでいく症状や増して行く苦痛に絶望し、
その絶望を束の間忘れるために摂食障害的行動を繰り返してきた。













確かに私は無価値な自分に価値を与えるために
唯一、叶えられそうな「痩せる」という領域を伸ばそうとした。


気を使いすぎて自分を責めることばかりで
無価値感な自分を追い出そうとした。


「手のかからない良い子」であり、困っても他人には援助を求めず、
自力で対処しようとしようとしていた。


ものごとに完全性を求めるあまり、挫折感を経験しやすく、
それが病気のきっかけになった。




それで摂食障害になった。


そして摂食障害的な行動パターンは
今も続いている。


食べ物は
食べたら嘔吐するというパターンを定着させた。
嘔吐によるドーパミンで脳を活性化させようと試みている。





失ったモノの大きさ(とくにお金と時間と健康、そして人間関係)の事実に
僕は悲しみ、うちひしがれ、
またそれと同じくらいに憤り、
そして何倍もの強さで懺悔してきた。

















◇「決別するべき過去」「現在は過去の連続性」





ただ、現在、僕を苦しめているのは
その過去からの呪縛なのであって
もう、大丈夫なのでは?
つまり、もう、摂食障害的な行動に頼らなくても
自分を支えていけるレベルにまでは
を取り戻しているのではないだろうか。
自分に納得できているのではないだろうか。






自律神経はやられた。
体力は奪われた。
インスリンは枯渇気味かもしれない。
お金と対人関係はトイレに流れていったかもしれない。



しかし、もともとの摂食障害の原因になった
無価値感は、もう、乗り切ったはず。


無価値なんだけど
必要以上に無価値感を感じてしまう自分の感受性の成り立ちやカラクリを
把握できた今は、もう、心を保てるはずだ。






それらは確かに過去にあった現実であり、
それらが僕を拘束し続けているのも明白な事実であるが
しかし、前者の「現実」と後者の「現実」とをつなぐ肝心要の
「過去」の方が、当の私自身の記憶から砂がこぼれるように
失われているのだ。





当時は、
摂食障害に助けてもらわなければ自分を支えられなかった。
痛みに内包されているせつなの快感で自分を生かしてきた。


ただ、もう今は、その刹那性にスガらなくても大丈夫な状態なのに
甘えと惰性、永木に渡って仲良しだった”親友”との名残惜しさに
お別れを告げられていないだけなのではないだろうか。

事情は解消されているのに
日課」を切り離す子努力を怠っているだけなのではないだろうか。



過去に拘泥することによって結局、
私自身が私を苦しめ続けてきたに過ぎないのではないか。
ふと、そう思い当たったのだ。










人間が本当に求めているものは、安全などではない。
目標に向かって努力し、苦闘することなのだ。

フランクル

籠に入れられた鳥は
いつしか自由を失ってた。
ある朝、逃げ出してみたけれど
もう、飛べなくて

(願いの詩/コブクロ