hello my darkness
◇はじめの結論ーー不健康だからこそ
夜がただ明けるのを待っていた日々。
嵐が過ぎるのをただ小さくなって必死に耐えていた。
誰の助けも無かった。
剪定者に愛でられた花が美しいのは当たり前。
しかし、孤独に自然に耐えて生き残ってきた花もまた、美しい。
その美しさをいつしか結実させたい。
ケアの無い人生でも生き抜けばよいことがあるって
誰かに伝えられる人になりたい。
だけど、一方で、他人にいちいち感情移入できる自分も
苦しくて辛いけど、愛おしさもかんじていたりする。
言葉を持たない血液はただ
静かに流れたまま
朝を待ち続けては
戻れない旅と知る
そして誰も居なくなった…
◇「吐いてから吸う」が正しい
なんか、こう、
キラキラしている人たちと
一緒に居ると30分くらいは
「元気もらってるなあ、
キラキラした人間に近づきたいなぁ」って
明るい人間になってるんだけど
そこからだんだんと、疲れてくる。
ナチュラルに他人とのつながりを求めて
ナチュラルに幸せに近づこうとしている人たちを感じると
どうしても「なんか違うなぁ」ってなっちゃう。
生きてきて「幸せに成りたい」なんて
一度も思ったことが無い。
常に「不幸から脱出したい」「不全感を拭い去りたい」っていう
何かから逃げ切りたい欲求ばかりだった。
だから、「幸せを求めている人たち」と
一緒にいると、どうしても、なんかなぁ…ってなっちゃう。
矢野の言葉じゃないけど
「幸せになりたい欲求よりも、悲しみを除去したいんだ」って感じ。
悲しみで埋まっているスペースに
幸せを詰め込むには、まず、
悲しみを吐き出してからじゃないと。
ドロドロは吐き出さなきゃ楽にならない。
◇健康的な人生に戻りたいのだけれども…
■前向きに健康な自分は嫌だ
前向きさを手に入れたら、一番嫌いだった
努力すれば、思考を買えれば、みたいな人間になっちゃう。
どれだけ頑張って、自分ではどうしようもないって言う
精神疾患という待機期間を未だに味わってるからだと思うけど
前向きな心が描ければ
どんな時だって、さりげなく、優しさつかまえて
■痛みに鈍感になりたくない
苦しみというか傷みに寄り添えない自分になるのは怖い。
健康的になりすぎると
創造と言うか感性が鈍くなりそうで怖い。
生き易くなるって事は
勘定の対処がうまくなることだと思うけど
ある意味では鈍くなることでもあると思う。
鈍くなると他人の痛みへの共感性がうすくなったり
ちょっとポエム的な、痛みを抱える人たちの
言葉にならない思いのエッセンスが隠れた作品とか表現に
感動できない自分になりそうで怖い
■痛みだって生きている感覚を暮れる
人間一番何が辛いって、カラッポなこと。
僕が思うにカラッポとは
感情と感覚がないこと。
苦しみとか悲しみとか痛みでも
何も感じない自分でいる事よりはなんと有意義なんだと思う。
ちょっと違うかもしれないが
私たちが音楽を渇望するとき、
進退感覚とが分からなくなっている時に
とりあえず、音楽で身体を「満たす」という行為に走るのも、
同じ要素なのかもしれない。
何も無い、何も感覚の無い重みのある身体だけを抱えているのは
耐えられない。
such a lonelyness
you are shadow in my head