寂しくって死にたくなる




◇「食べ物の温かさ」からの脱獄









摂食障害抜きの自分が想像できない…




うーん、前進してないけど後退しても無いって感じー
たまーに強烈に寂しくて死にたくなるけどねー


相変わらずに過食嘔吐にアディクトしているし、支えてもらってる。
おかしな価値観も是正されていない。




摂食障害克服=太って幸せじゃなくなる、っていう意識が抜けきれない。



どう食べたらいいのか分からない、は
どう生きたらいいのか分からないに通じている


一度狂ってしまった食欲や代謝だけでなく
幸せの価値観も健康な状態に戻すこと。






■病者が使う「寂しい」の意味


たぶん、寂しいっていうのは、
本当に健康な人たちの使う「寂しい」っていう意味とは違って
求められていないって言うか所属感を感じられないって言うか…
要するに、”役立たずな自分”みたいな感じの意味なんだと思うけどー




誰かと一緒にいたいっていう具体的な寂しさと言うよりは
何と言うか「居場所がない」っていう意味での
空白を寂しさって言っているのかもしれない


これまで、「寂しい」と言う言葉は使っていたけれど、
それがどんな意味なのか
本当は分からなかった


あえて言えば、
音でしか表せないけれど、『スーン』っていう感じだったかな









■病者が使う「死にたい」の意味


多分、死にたいってのも、

「つらいよー、シンどいよー」っていう嘆きというか
叫びみたいなニュアンスで
使っているんだと思うんだけどねー
あとは、「死にたいくらいに普通に生きたい」っていう健康的な時間への
渇望なのかもしれない。




生産的な存在になれずに
過食嘔吐という最大級の非生産的な人間を
いつまでも背負って生きていくのを
もうやめてしまいたい…って思えば思うほど、結局は
そこに逃げ込んでしまって、抜けられずに、もう9年目。





どんなに食べ物を詰め込んでも、本当に感じたい感覚で
満たされることはないって分かっているの、いつまで続くんだろう。


けれども、同時に、「温かい愛情を渇望している自分」が
いるのはわかった。食べ物はその代償なんだってこと。


だとすると、もう、それを恐れずに手に入れて安らかな自分を
手にするしかないんだなぁって思う。




■本当に必要なもの…







私に必要なのは安心感だった。



私に足りなかったのは人の温かさだった。
やらなくちゃいけないことは
努力でも我慢でもなかった。
”あったかい人たち”の中へ入っていくことだった。




そのままの自分を受け入れてもらえる。
そんな温かい体験を重ねていったとき、
辛さはきっと癒され…





子どもは、親からどういう扱いをされて傷ついたとしても
その親の元で生き抜いていかなければなりません。


そのために、親に受け入れてもらうために
親から拒絶されないために、子どもは仮面を被るのです。


本当の自分を闇に葬り去り、仮面の自分、
親に気に入られる自分として生きています。


ですから、仮面の自分があたかも本当の自分のようになってしまうのです。
自分で自分に騙されてしまうのです。
だから、本当の自分が分からなくなるのですね。



自分を信じられなくなるのです。
自分を信じること。これが自信です。
ですから、自分に自信がないのです。


たとえ強烈なトラウマとなるような見捨てられ体験がなかったとしても
こうして、静かに、穏やかにじわじわと見捨てられるような体験が積み重なると
子どもは、一人で生きていかなければならない恐怖を感じます。




たとえ、怒鳴られなくとも、暴力が無くとも、です。


なぜなら、親を信頼できないからです。
親を信頼できなければ、世の大人も信頼できません。


となれば、世の中のものすべてが安心できない。
世界はとても危険なところとなるわけです。