慣れ親しんだ”自分”を手放すのは難しい



たとえ どんなにどんなに強く
願ったってもう戻れないけど
遠い君を 見えない君を
想い続けて
君からもらった幸せはずっと
心の中で輝くの

(たとえ、どんなに…/西野カナ


















春になると「今年こそは…」ってもう、何回目の春になるんだろう。
そして、本当の意味での祝春は僕は味わったことは無い。
春を迎え入れたことが無い。








◇不健康な自分の喪失




■「もしも」は無いとしても…


失恋した女の事の真情を描写している歌詞。


ただ、今の僕には、
病者が健康な自分を取り戻す過程を歌っているように感じる。



君(病気を抱えてしまった自分)からもらった幸せは
胸の中で輝く。


願ったってもう戻れないけれど…



(本当は、病気なんかしないで生きられた方が良かった
 戻れるのなら、そっちにいかないように誘導したい)











■健康な自己の喪失の悲哀





「健康な自分」という人物を無くしたことについての「悲哀」です。

これは、人生を蝕む病気になることで
「自分の人生はすっかり変わってしまった」と感じる喪失感に
焦点を当てたものです。


対人関係療法では、通常、「何かの病気になること」は
第三の問題領域である「役割の変化」として扱います。
病気になることは、適応の難しい重要な変化だからです


そして、不安定な場所(病気)に安定していた自分を
手放して、健康な自分に戻っていく。

辛くとも慣れ親しんだ「不健康な自分の喪失」も
受け入れていかなければならない







◇さいごにーー言いたかったこと



病気になるような生き方をしている自分を
今の自分だったら、救ってあげれるかもしれない。


ただ、病気になったからこそ気づけたこと、
触れる機会を持った人物や書物、
病気にでもならなければ気づけなかった自分の弱点・生きづらさを
変えていかなきゃ…とは思えなかったかもしれない。



そういうふうに、たしかに、健康な自分では
辿れなかった人生を辿ってきたけれど
それでも強く願えるのなら、
そんなに短期間で大きく自分を削りながら生きることは
したくなかった。


ちょっとずつ、自分の駄目さに気づいて、受け入れて改善して
前に進みたかった。



病気になった自分から、確かに幸せもたくさん貰った。
いつだって、痛みの裏側には幸せがあるって教え貰った。
傷ついた分だけ、幸せのハードルが下がるから、その分、
幸せも安易に身近なもので感じられるっていう「現在の尊さ」も
教えてもらった。


だから、心の奥で輝くよ。
ありがとう。


けどもう、そろそろ、タイムトゥーセイグッバイをしても
いいのではないのか?


いったい、いつまで、僕は
ここにこうして、このままでいるべきなのだろうか。







いつ、桜を探しに旅に出かけられるのか、
いつになったら、温かな日差しを温かいと実感できる場所に
参加できるようになるのだろうか…





ちょーーーっと、もー、お疲れモードだなぁーーー














※補足ーー食べ物へのアディクション(依存症)










アディクションとは「選択肢がほとんどない人生を生きること」でもあります。
なぜかといえば、高揚感にいたる行動をすることが習慣になり人生の全てになっている時に
他の重要なことが入る余地がないからです。

アディクションからの回復はその反対で
「選択肢の多い人生を生きるようになること」です。




アディクションから回復する努力を長く続けていけば
いつか、人生とは古い自分を更新して新しい自分に変えていく継続したプロセス
であることを発見するでしょう。

アディクションに冒された人は、
アディクション行為をすることで、日々体験する不安や苦しみから
逃れられると信じたのです。



そういう人も生きることの意味を考えるにつれ
人間としての精神の大切さがわかるようになり、
自分を再生し困難を跳ね返していくことに意識を集中できるようになるでしょう。


そういう生き方は、それまでのアディクションに満ちた生活では
体験したことの無い未知の世界です。


未知の世界に足を踏み入れるのを助けてくれるのは
「信じる力」です。



回復の道を歩み始めた人は
人生とは生きていく意味を引き出す機会がたくさん詰まった
苦闘と挑戦の連続であることを発見するでしょう。



成長には喜びと苦しみが伴います。
人生とはそれを学ぶ場でもあるのです。

回復のプロセスでは
変化を避けたり変化から自分を守ろうとするのではなく
変化に向かって積極的に進んでいくことを学びます。