根拠のない罪悪感や無力感に苦しむあなたへ





◇はじめに




■まねがつくり出す、人の心を読み取る能力




人間というのは
本来は、ひとりでは生きていけない社会的な生き物です。

だからこそ、脳を発達させ、言葉を操る能力を身に付け
相手の行動や表情から
相手の心の中にある思いを読み取る能力を培ってきたのです。



相手の行動や言葉をまねること、
つまり同じ行動や言葉をすることによって
その人がどうしてそういう行動を取るのか、なぜそう言ったのか、
そのときの「心」を体験し学んでいるのです。


ですから、「まね」というの
は脳の発達においてとても大切な訓練なのです。


子どもは大人のまねを何度も何度も繰り返すことで
前頭前野を発達させています。
そして、この他人のまねをするという好意は
他者の心を理解すると同時に
他者と自分の違いを脳にインプットしていく行為でもあるのです。


というのも、
人の真似をすることで自分はこれができて
これができない、自分はこう思うけれど人は違う、
という自分と他者の違いを認識することになる
からです。



「自分」が確立されるのと同時に「他者を理解する脳」が作られます。


子どもの脳は、一つの行動を通して
同時にいくつものことを学んでいるのですが
いくつもの能力が同時に育っていくからこそ
人は成長したときに
言葉でコミュニケーションをとりながら
同時に相手の行動を見て
その人の本当の「心」を読み取るといった複雑なことが
出来るようになるのです。









◇境界線の問題症候群



自他の境界線、つまり「自分は自分」「相手は相手」と
個別の人間として、自分と他人を扱えるかどうか?
が成熟した大人として社会に出て行くためには必要。

すなわち、大人とは
「自分が解決すべき問題」と「相手が相手の責任で解決するべき問題」を
しっかりと分けて考えられる人、というふうに考えていくことが出来る。



相手の問題を自分の問題として扱ってしまうと
「間違った優しさ」になるし
自分の問題を相手の責任としてなすりつけるのは
「責任放棄=幼稚」ということになる。



自立とは
自分の問題は自分の問題として立ち向かい、
相手もまた、一人の人間として取り組むべき問題があるんだと
認識できること。











○パーソナリティ障害について


■自分の視点にとらわれ、自分と周囲の境目が曖昧


自分と他者の境目が曖昧で
十分に区別できない。
そのため自分の視点と他者の視点というものを
混同しやすい。
自分がいいと思うことは
相手もいいものだと思うことを疑わない。

つまり、客観的に自分を振り返り、
周囲の人の立場になって考えるということができにくい。


自分を絶対視しやすいと言えます。
それ以外の考えは受け容れらないのです。
そして、何かまずいことが起きると、
それは自分が何か問題があったからだとは考えずに
周囲のものの手はずが悪いからだと考えがちです。







○DVについて



■DVも虐待は境界線の問題



DVや虐待の加害者の
「相手が自分を怒らせた」
「お前が俺を怒らせるのだ」
「どうしてお母さんをイライラさせるの」
という言い方。


たとえ、ネガティブな刺激が外から加えられても
流される人も居れば自己抑制を出来る人も居る。


だとすると感情のコントロールが出来ていないのは
自分の問題なのに
「怒らせた」と相手のせいにするのは
「自分の問題」と「相手の問題」がごちゃごちゃになっている。



境界線がハッキリしていない。


被害者の方も境界線がハッキリしていないので
相手の感情を害したのは自分に責任がある…と罪悪感を感じるから
暴力暴言を許してしまう。






アルコール依存症家族


■自分の力ではどうにもならなくなると、無気力になる



「自分が何をしたか」で叱られる子供は
自分の価値観と自尊心を育てることができますが
「親の機嫌がどうか」で叱られる子供は
相手の顔色を伺うようになります。





親が、どのくらいアルコールの影響下にあるか?で
自分の処遇が決まるなら、
親がどれくらいアルコールの影響を受けているかのデーターベースを
構築して、親を観察しなければならなくなる。

いつ地雷を踏むのか分からないので
常に親の顔色を窺いながらビクビクしていなければなりません。













◇生きているだけで罪悪感を感じているあなたへ



■罪悪感は基底的な愛情の欠落



以上のようなことが頭に入っていれば
「どうして自分は愛されない存在なのだろう?
 どうすれば愛してもらえるのか分からない…」
という問題も、解決できると思います。



まず、大前提として人間は幼少期に受けつべき愛情が欠損してしまうと
障害に渡って底で失われた愛情に対する欠落感を抱えながら生きていくことになってしまいます。


だから、根拠のない罪悪感は
幼少期の適切な時期に与えられるべき愛情を与えてもらえ無かったことに
大きな原因があります。



では、なぜ、愛してもらえなかったのか?
自分に愛される価値がなかったからなのでしょうか?


赤ん坊に価値のある行動など、本当に出来るのでしょうか…





■愛情が実感できないのは親側に問題があった!!









そして、
このような説明も出来ます。


親が親自身の感情の不安定さから
子どもに当たったり
冷たく扱ったりしたとする。


すると、子どもは親という絶対的な存在から制裁を受けたのですから
何か自分が悪いことをしたに違いないと考えます。


しかし、いくら自分のやったことを振り返ってみても
何も思い当たることがないので
混乱する。


そういったことが繰り返されているうちに
子どもは子どもなりに精一杯考えて、ある理由を思いつきます。


それは「自分が生まれてきたこと自体が悪いことなのだ」というものです。
これが自己否定の起源です。



つまり、自分を絶対的に愛してくれるはずの親を否定しないため、
そして親との関係を良好に保つために
自己否定が行われるのです。


それはつまり、
その自己否定の根拠を徹底的に探っていっても否定の出発点のところには
自身を否定すべき何の理由も見つからない、ということになる




つまり、はじめに自己否定そのものが作られたのであって
そこから二次的に自分自身のあら探しを
行ってきたに過ぎない。



ですから、愛されている実感を得にくい人が感じている
「愛される価値がないから愛されないんだ。
 もっと何か素敵な自分にならなければ」というのは
全くの間違いであり、
愛情を注がれるべき時期に
親側になんらかの事情があって
子どもが望むような愛を与えられなかった。


それは、「子どもの問題」ではなく「親側の問題」なのだ。




ただ、境界線がハッキリしない子供は
徹底的に、自分に原因があると思ってしまう。
そして、大きくなっても愛情を実感できないのは
「自分が不完全だからだ…」という価値観を
ずうっと、引きずってしまう。











◇まとめ



■自分の問題と他人の問題を区別する


心の病になる患者は
他人との「境界線」の問題を抱えた人が多い。



なぜなら、
「自分の問題」と「相手の問題」がごちゃごちゃになっていて
相手が自分で解決すべき感情の問題も
すべて、「自分が何か悪いことをしたからだ…」と思ってしまう。
つまり、自分に責任の及ばない範囲の責任と後始末まで
本気で自分が抱え込んで処理しなければならないと
思ってしまうから。


他人は他人。
なのに相手の領域の責任も背負ってしまう。



恋人の機嫌が悪いとき
「仕事で何かあったのかな」と思えばストレスにならないが
「自分が何か悪いことをしたに違いない」と捉えると
大きなストレスになる。


そして、実は、子供は
自分と他人との境界線があまりはっきりとしていません。
特に親との境目はあまりないのです。


ですから、親の精神的な不調や虐待が
子供に大きな影響を与える理由の一つとして
「親が不幸なのは自分が悪いせいだ」という
子ども特有の感じ方があります。


「親といえども、個人としての事情を抱えた1人の人間であり、
 その精神状態は自分と直接関係がない」


という見方ができていないので、
罪悪感を抱くことも多いし、親の気持ちを良くしようとして
自分を育てることを放棄してでも親の機嫌をとるようになる。





性的虐待という悲惨なケースであっても
子どもが誘ったなどという事を平気で言う人が居るのです。


たとえ、どれだけ露出度の高い洋服を着ていようとも
98%の男性は理性で自分を抑えることが出来る。
つまり、「自分の服装」に非があるのではなく
欲望を抑える理性を持てない男性側、つまり「相手の問題」なのだ。


それを、「私が誘ったのかも…」と思ってしまうのは
やっぱり、「誰の問題か?」という境界線がはっきりしていないのだと思う。




















◇おわりに




■大人側の責任をいつまでも庇ってあげる必要はない



愛されるべき時期に愛を補充してもらえずに
ずっと枯渇感と愛されなかった自分への罪悪感を抱えている人にも
同じことが言える。
すなわち、「自分に問題」があったから愛されなかったわけではなく
「相手の問題」つまり、親に事情があった。だから、愛を注ぐ余裕が無かった。



夫婦仲が良くなくて、常に険悪なムード、
自分たちの事でイッパイイッパイの親だったのかもしれない。


あるいは、アルコール依存症の父とその介抱をする母は
とてもじゃないが子どもにまで関心が廻らなかったのかもしれない。


シングル家庭で仕事と家事と子育てで、とりあえず物理的な用件だけを
こなすのに精一杯で心の触れ合いまでに到らなかったのかもしれない。


そんなふうに、色々な事情がわかってくると
「欠点だらけの自分が悪いから愛されなかったし、
 愛されるためにはもっともっと完璧な自分にならないといけない」
という考え方を少し、軌道修正をしても罰は当たらないと思えるのではないか。


駄目だったのは、愛される要素を持たない子どもではなく、
強いて言えば親が能力不足だったし、その親だって、子どもが憎いから愛情を注げなかったのではなく
それぞれの場面場面で、必死に生活を送ろう、生きようとしてきた結果なのだ。


その”それぞれが必死で仕方がない”という事情を全て引き受けて
「愛される価値がないんだ…」という思いをずっとひきづってしまうのは
やっぱり「相手の問題」を「自分の問題」として、どうにか対処しなければならないっていう
間違った責任感、そして、どうにも解決できないから抱く罪悪感を抱えてしまっている。



もう、大丈夫。
相手の不備を自分の問題として抱えていく必要なんかない。
相手の問題を自分の問題として取り組んで、他の人たちよりも必死に身を削って
愛される理由を育てようとしなくても、もう大丈夫。




境界線問題から、解放されて
自分が取り組むべき問題に注力していけると良いですね♪