自分から離れて、過去と決別する


■原因と犯人をハッキリ区別できた




色々な要因があって
過食嘔吐をやっている自分を自分が見つめている。




父親に嫌な感じを受ける。
世話になってる支持直に家族を養ってきた。
そういう理性レベルでは
父親の鏡のような人だけど
感情のレベルではお父さんとしての存在
一人に大人の男しては付き合いたくないって思っている。




そして、そういう自分がいるのは
心(感情)の交流が無く
父親という役割に終始する人間であると
感じているから。


そしてそういう父親は
祖母の姿を見れば、こんなふうに育ってしまうだろうなぁと
納得する自分が居る。


それはつまり、
自分から離れて自分を
見ている自分が居る。
全ての事情を俯瞰して見れている。



だから、前向きな諦めができる。


今の状況に辿り着いた、
辛い状況に自分が居るのは何も全て
自分の努力が足りなかったわけではない。



いろんなことがあって、
「仕方がなかったんだ…」と思えるようになる。








◇全てひっくるめて、今の自分を感じることができる






■自分から離れる


自分を離れると言うのは
ある種の離人感覚と言っても良い。


ただ、病的なものじゃなくて
良い離人感。
自分を自分が包み込むような
母性的な目線で自分を見つめられるような状態。



自分の状態を外から見れている。
それは、メタ認知と言ってもいいかもしれない。




たとえば、
ネガティブな自分が居る。
客観的には対して出来事で無いのに
感情のコントロールができない自分が居る。


今までなら
感情をコントロールできない自分の駄目さを
自責したが、今では、病的に自分を責めることはない。


なぜなら、自分から離れて自分を見られるようになったから。


なんで、自分はこんなにもネガティブになっているのか?という
今の自分を作り上げた
全ての事情と、全ての状況を俯瞰して納得する
もう一人の自分が居る。







■外から自分を見れると楽になる




なぜ、自分はネガティブな姿勢になるのか
自分に納得できる理由が持てると
楽になる。


どうして、他人よりもネガティブになって
そのネガティブに心が磨り減ってしまうのか、
そういう自分の理由が分かると
少し、いや、大きく安らげる。





■現在は過去の積み重ねが構成している


同じように、
幼児的に愛されたい、という自分が居る。
何も言わなくても全て包み込んで欲しい。
無償の愛を与えて欲しい、と
幼児のように願う自分が居る。


そういう自分を
ずっと自分で認めたくなかった。


でも、自分を離れて”愛情を求める自分”を上から見てみると
なぜそう思うのか、わかる。


どうして、歳相応とは思えないほどの
幼児のような愛情を求めるのか。


その理由と、そういう甘えたい自分の存在を
素直に認めることが出来た。
求めている自分をもう一人の自分が
きちんと納得させる。



他人から嫌われてる
良い自分にならなきゃ
なんで?そういう価値観がある。
自分を外側から見れる。

自分から離れた。




例えば、自分を俯瞰(色々な事情があってこういう生き方をしている)できるのに
役立ったのは、次のような説明文を読んだからだ







◇自分に価値がないから愛されなかったのではない






■根拠の無い罪悪感



「根拠のない罪悪感」という精神的呪縛



罪悪感と言うのは普通、
万引きしたけど店に悪かったとか、
法を犯してしまったとか、原因と結果があるわけです。

でも、根拠の無い罪悪感は因果関係がなく、
ただ何となく自分が役立たずであるとか、
期待に応えられなかったとか、
自分の存在自体が不純であるとか無意味であると考えて
いたたまれないような気持ちになってしまう。


そもそも根拠がないわけないか。
原因がわからないので解消されることもなく、
こういう人たちは常に罪悪感と一緒に居ることになります。
だから、せめて安心したいと考えて「いいこと」をしてみたりということになる。




なぜそんな罪悪感を持つのかというと、
成長過程において人は反抗期を迎えて必ず親を裏切るわけですが
現在の核家族のようなベタベタした暑苦しい関係にある子どもは
こうした当然であるはずの裏切りを何か
とてつもなく悪いことと受け止めてしまう。


親の期待に応えられない自分に
間違った罪悪感を感じたまま
そこに鈍感な親のフォローが入らないから
ずっと自分に落ち度があって
満足に愛してもらえないんだ…と
落ち込み続けることになる。









■自分の存在に自信がない



摂食障害患者の家は家族の絆が薄い。
患者側の要因を言えば
回避性を持つ恥ずかしがりの患者は
自分から親に甘えることができない。


しかし、患者は、親が自分にかまってくれないのは
「自分のことなど、どうでも良いからだ」
「自分の存在は無意味だ」
「居ても居なくても良い存在だ」と
被害的な感情を抱くらしい。


両親と情緒的な交流を持つ機会に乏しかったらしい患者は
自分の存在基盤が脆弱になる。


たとえば、
患者は、自己存在の無意味感を持つ。
それは、患者が思うところによれば
「自分の経験に対する両親のレスポンス(応答)がなかったから」である。


そして、そのため、
患者の中には大きな虚無感が広がり
患者は自己存在の無意味感を味わってきた、という。


そのような患者は
自分が存在してよい保証を求める。


患者は
人からの「よい評価」を得ようと
自分を捨てて相手の価値観を満たす人間を演じるようになる


例えば、患者は「人に必要とされるそこに居てよい存在」であろうとして
「良い人」をやり、
有能で魅力的な存在だと人に思ってもらおうとする。



そのように強烈に甘えたくて
抱きしめられたいのに怖くて表現できない摂食障害患者は
いつも人の目が自分に向いていることを求める。
人に自分を見てもらえず自分に光が当たらないと
自分の存在感が希薄になり、
患者は、自分が生きているという感覚がもてないようである。


好かれようとすると
相手の自分に対する評価を上げようとし
自分の弱点を隠そうとし
結果てきに相手を敵の立場に追いやってしまう。
それよりも
自分は相手が好きなんだ、という点に
集中させることが大切。


そして、自分がこんなに嫌われることを
恐れているのは
自分に価値がないからではなく
たまたま自分が安心できるような
雰囲気の中で成長してこなかったからである、と
頭で分かることである。


親の人間不信が自分に影響を与えているから
自分と相手を信頼できないので自分には自分と他人を信頼する能力があるのだと
思うことである。








■自分を信頼してもらえて、はじめて他人を信頼できるから…




人は自分にとって重要な他者を信頼できたとき
自分に自信が持てるようになる。


だとすれば、
自分にとって重要な他者が
どんな人間だったかということは
その人の自信に影響する。
そして、人間は
小さい頃、この自分の愛着対象を選べるわけではない。
それは、決められている。
まさに運命である。


小さい頃、自分に安心を与えてくれるような人
信頼できる愛着対象をもてたかどうかは
その人の責任ではない。

そのような人が自分を信頼してくれたかどうかは
運命である。


■人間のイメージを決め付けてはいけない


自分を信頼できない人は
他人を信頼できない。
つまり、自分を信頼できない親は
自分の子どもを信頼できない。

子どもの側からすれば
信頼できる人がいたかどうか、
また、自分が信頼されたかどうかは
まさに宿命としかいいようがない。

依存心の強い親に気に入られるために
絶えず気を使って成長した人、つまり、
絶えず拒絶の脅威にさらされて成長した人間は
他人を信頼する能力も、
自分を信頼する能力も無いまま、
自信喪失した人になっていく。

そうした点で
自信がないということは
自分の責任ではない。




■大人になってからは自分の人生は自分の責任


しかし他方で、
その人の責任であると言うのは
こうである。


その人にとって小さい頃の重要な他者は信頼することの出来ない人間で
会ったかもしれないが
その後の人生で出会った人々は、
必ずしも信頼できない人たちばかりであったわけではない。

信頼できない人も居たが
同時に信頼できる人もいたはずである。

ところが
その人は小さい頃の自分の周囲にいた人間をモデルにして
人間とはこういうものであるというイメージを作っている。

そこで現実に信頼できる人に出会いながらも
昔の信頼できない気持ちを
その人に転移してしまっている。





















◇おわりに



■納得できる理由に辿り着けた



誰かのせいではあるんだけど
誰も悪くない。
色々な個人が抱えている問題が
自分に押し寄せたときに
自分には耐えられなかった。

いままでは
そういう耐えれない自分を責めた。

しかし、自分の弱さにも理由があるんだって
自分で自分を離れたところから、全体を鑑みて
自分の存在を肯定的に見れている。





■生きているのは過去ではなく現在



視野を広げるとは
今まで軽蔑していたものの中に
価値を見つけられるようになるということである。
今までに
あることを価値として自分に教え込んでいた人間は
単にその人の自我防衛からそれを主張していたに過ぎない。


一度身に付いた習慣を変えるのは
確かに楽なことではないが
性格を変えることに比べてれば難しくはないし
現実的であろう。


自分には価値がない、って思わさせた人たちにも
何らかの理由があって
怒りをぶつける相手が必要だったのだろう。


その支配は
大人になってから、目の前に居なくても受け続けてしまう。
小さい頃の体験によって身に付いた価値感(無意識)は
そんな簡単に離れていかない。