習慣を変えるのは王国を築くよりも大変なこと


なんかさー理由がない痛みってムカつくけど
自分が悪いって分かってると、納得感があるぶん楽かも。


でも、多少はつらいとか苦しいとか感じる瞬間もある。
だけど、なんていうのか、逆に、つらいくらいが普通?なんだなって
思うようになった。慣れなのか成長なのか自分を痛みつけた成れなのか…
痛いのが日常になったのかも。

もう、痛み無い日々を過ごしてた自分が居たなんて
思い出せない





もうそろそろ、できない自分を認めてあげたら?
じゃないと本当の‘あなた’がかわいそうだよ?










■逃げてきた分だけ距離があるのさ






怠けることと自分を大事にすることの境目がわかんなくなってた。


今日、朝、どうしても起きたくなくて
布団でウデウデしていたときに
「こんなにサボってちゃいけない…」って内側から声が聞こえた。
けど、布団に包まって、何かしなきゃって思うのやめた。
そうしたら、身体が小刻みに震えているのが分かった。
吐いた後に感じる、震えと一緒だった。



6時間の睡眠の後でも
身体の痙攣は治まらないのだ。
それほどのダメージを受けていたのだと
改めて感じた。
もしかしたら、それを感じないようにするために
ノンストップで絶えず動こうとしていたのかもしれない。


少し気性を我慢して
身体の震えを感じながら、
布団に入って何もしないことは
サボっているのではなく
自分を”ケア”している事になるのかもしれないって、
少し思えた。



ただ、それはせいぜい20分も持たないで
頭の中で、「価値の無い人間が何のんびりしようとしているんだ」って
言う声に勝てなくて
また、過食して嘔吐して
麻痺してい身体をさらなる麻痺で奮い立たせて
今日も図書館にすべり込んだ。



生きることが不得意というのは
もしかしたら、自分をケアしてあげる、自分を大切にする力が
弱い人の事を言うのかもしれない。
ケアにかける時間をサボりとかナマけと捉えてしまうのであれば
完全に壊れるまで、動ける限り動くことになる。















◇走ることより止まる事の方がツラい理由










■内側からの強制力


私たちは、時になぜかわからないけれど
「そうしなければならない」というきもちになることがある。
それが内的強迫的性である。
内的強迫的性とは
誰かがその人に強制するのではなく
その人自身がそうしないではいられないということである。





幼少の頃に
「ぼんやりしていちゃダメ」と
勤勉性を養うようにしつけられると
物思いにふけったり、
何もしないでゴロゴロしていることに後ろめたさを感じるようになります。
そして、ボーッとさえしていなければ
大人からとやかく言われることは無いので、
「何かをしてさえいればいいんだ」という心理的定義を獲得します。
(努力の中身ではなく、ただ、努力することに一生懸命になる。
 頑張っている感じが得られれば満足。で、成果も過程も楽しめないから
 燃え尽きる。)

そこから「何もしない時間には価値がない」という
間違った価値観を抱くようになり、
その価値観に基づいて行動するようになってしまう。











誰もその人に偉くなって欲しいと期待していないのに
自分が偉くならないと気が済まない。
「べき」の暴君の支配にゆだねられている状態である。
周囲の人がその人に偉くなれと言って言っているのではない。
成功を期待しているのではない。
しかし、その人は外側からの期待とは別に
自分の内面から成功をせかされる。







■「そうしないではいられない」という内的強制はどこからうまれるのか?




・何かをしようとしていないと無能な自分が生きているのが申し訳ない



周囲の人の期待ではなく、
自分が成功しないと気が済まない。
周囲から成功を強制されているのではなく、
内面から強制される。


明日さぼっても何も起きない。
でも明日は「いかなければならない」と思う。









相手が忙しそうにしているだけで
もう気持ちが落ち着かなくなる。
自分が責められているように感じるからである。
自分が怠けていることを責められているように感じてくる。
もちろん、うつ病的傾向の強い被責妄想の人は
怠けているなどということは決して無い。
普通の人よりも一生懸命頑張っている。


ただ、小さい頃から、
本人が頑張っているかどうかと関係なく責められて育っている。




人が忙しくしていれば
自分が怠けているのを責められていると感じて、
もう、居ても立っても居られない。落ち着かない。
頑張っていても落ち着かない。
その程度の頑張りでは許してもらえないと感じるからである。
もちろん、小さい頃は
どんなに頑張ってもそれでは許してもらえなかった。


そして大人になった。
環境が変わった。
周囲の世界に怯えているけれども
昔ほどではなくなった。
昔のように周囲の人に怯えなくなった。
見捨てられる不安も小さい頃ほどではなくなった。


しかし、生き方の土台は棲み付いている。



自分が一生懸命努力していれば
努力しているほど
「おれがこんなに頑張っているのに、何でこんなに責められるんだ、何でこんなに俺だけつらいのか」と
腹が立ってくる。











◇人生なんて終われば良い







■日常への嫌悪感を感じたら




私はずっと生きづらさを抱えています
うまく生きられなままにここまで来ました。
いろいろやりつくしてしまった感じで
それでもうまく生きられない。

疲れていること、耐えられるくらいの苦しみ、不健康な実感、
そういうものを背負っていることだけが
唯一、生きている事を自分で感じられる証だったし
免罪符になるんじゃないかと思った。

一日の終わりに空虚な気持ちに満たされることが
その日「良い子」だった明石で
そのうち自分を不当に甘やかさなかったという気持ちが慰めになった。


ケド、結局、毎日が下らなすぎる。
食べ物と過ごす以外の時間はあまりに無意味で

もう、13歳からずっと思ってたから
人生の半分はくだらないと思っている計算になる。

何がくだらないのか?
存在が生きていることが呼吸をすることがつらい。
時間を潰すために
勉強したりネットしたり。
いきたくも無い人生を生きる
もう終わればいいのに









■明日がいらない




苦しみには色色あるけれど
ご飯が面倒とか
朝が来るのが憂鬱とか夜になるのが恐いとか
そういう日常への不信感を持ったら、もう、生きているのはイヤになって決定的に
生きるのが面倒になるんだと思う。
繰り返される日常の習慣がイヤで面倒だと思うのなら
それはもう日常という人生がイヤでいやでエスケープしたくて
仕方がないのだと思おう。







今日も一日が終わる
そして自分の家の自分の部屋でいつもの毛布に包まって眠り、
また朝を迎える。
そしてまた、同じような一日がはじまるのだ。
変わるのは季節だけで
後は何も換わりはしない。


明日なんか、もう来なければいい。
家の中がまったく安心できないから、
恐ろしくてたまんなかった。
朝になったらまた夜が来るんだって。
疲れているのかな、早くこの人生が終わって、と思ってしまいます。
このまま生きていくのだったらもう嫌だなって思います。